『スプラッター映画の起源を探れ!ゴア映画の父ハーシェル・ゴードン・ルイス』※閲覧注意

特集!

スプラッター映画の起源を探れ!
ゴア映画の父
ハーシェル・ゴードン・ルイス

※閲覧注意
10月といえばハロウィン!!
私は毎年このシーズンにホラー映画をみまくるのだ。
あらやだ、オフシーズンもみてるじゃないか。
夏もホラーシーズンですね。
夏に若者たちがキャンプに行って順に惨殺されていく映画がアメリカには多すぎるんだよ。
今年は何を観ようかな。
ゾンビを生んだロメロの『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)を久々に見るのもアリだなぁ。
『悪魔のいけにえ』(1974)は最高だ。2作目も大好きだ。
『ハロウィン』(1978)のマイケル・マイヤーズに会うのもいいなぁ。
『13日の金曜日』(1980)は1作目より完結編がオススメだ。
『死霊のはらわた』(1981)は偉大。これも2作目か3作目。
『エルム街の悪夢』(1984)も大好物。ウェス・アンダーソン様に感謝。
『バタリアン』(1985)でわいわい楽しむのもありだなぁ。
『チャイルド・プレイ』(1988)も2作目がぶっ飛んでいて大好き。いやーん。
あれは続編がわちゃわちゃになるでお馴染みのホラー映画を変えた一本。
『スクリーム』(1996)も何回見ても楽しいからなぁ。
『ファイナル・デスティネーション』(2000~)シリーズ。
死に方を楽しむまさに悪趣味映画。
目ん玉をレーザーで焼かれるのだけは勘弁。
近年だと、『ハッピー・デス・デイ』(2017)が傑作だった。
あれはホラーファンのツボを押さえていてたまらない。
そんな拷問、殺人、無残にも血しぶきをあげるスプラッター映画
一部の人は目にすることも嫌い、また一部の人はそれを好み漁って…
現在までに大量生産されているジャンル。
どのようにしてそのジャンルは誕生したのか。
その開拓者は誰なのか。
ジョン・カーペンター、ウェス・クレイヴン、ジョン・ウォーターズ、ロバート・ロドリゲス、クエンティン・タランティーノ、そしてジェームズ・ガンなど多くの監督に影響を与えた人物。
その名は…
ハーシェル・ゴードン・ルイス
彼の物語を2010年に公開された『ゴッドファーザー・オブ・ゴア』を参照して解明していきます。
彼は1926年6月15日にピッツバーグで生まれた。
父は6歳の時に亡くなり、母と共にシカゴへ引っ越した。
ノースウェスタン大学を卒業後、彼はミシシッピ州立大学でコミュニケーション論を教えていた。
そして少しの間、オクラホマシティのラジオ局でディレクターとして働いていた。
その後シカゴへ戻ると、コピーライターとテレビCMのディレクターの仕事に従事した。
1960年、彼は『The Prime Time』というティーン向けのエクスプロイテーション映画を製作。
これは若い女性が画家と出会って、ヌードモデル、ドラッグ、ロックバンド、ビートニクスなどの世界に夢中になる物語であった。
この映画には『イージー・ライダー』(1969)『ファイブ・イージー・ピーセス』(1970)で名を馳せる前のカレン・ブラックがわずかながら出演している。
この時代については先月の9月号でまとめているのでそちらを参照ください。
本作は興行的には成功しなかったが、ハーシェルにとって重要人物に出会うきっかけになった。
エクスプロイテーション映画製作者のデイヴィッド・F・フリードマンだ。
彼は1959年ごろにシカゴの映画配給会社に勤めていた。
そこにハーシェルが訪れてきて『The Prime Time』の説明を始めた。
1961年、ハーシェルは『Living Venus』で監督とデイヴィッド・F・フリードマンと共に製作を務めた。
これは1953年に創刊された雑誌『PLAYBOY』の発刊者ヒュー・ヘフナーに似たような登場人物が、『Pagan』と呼ばれる男性雑誌を創刊する性欲アドベンチャーである。
そんな本家プレイボーイでカメラマンとして活躍していたラス・メイヤー1959年に監督を務めた『インモラル・ミスター・ティーズ』という映画が公開。
この時代はヘイズ・コードがあったため、性描写が制限されていた。
ヘイズ・コードとは
アメリカ映画製作配給業者協会(後のアメリカ映画協会)によって1934年から実施され、名目上は1968年まで存続した自主規制条項である。
プロモーションコードともいわれる。
映画が子供に悪影響を与えないようにする目的で作られた。

以下の項目は、いかなる方法においてもアメリカ映画製作配給業者協会の会員が映画を制作する際に用いてはいけない要素である。
冒涜的な言葉(“hell,” “damn,” “Gawd,”など)をいかなるつづりであっても題名・もしくはセリフに使うこと。
・好色もしくは挑発的なヌード(シルエットのみも含む)または作品内のほかの登場人物による好色なアピール
・薬物の違法取引
・性的倒錯
・白人奴隷を扱った取引
・異人種間混交(特に白人と黒人が性的関係を結ぶこと)
・性衛生学(英語版)および性病ネタ
・出産シーン(シルエットのみの場合も含む)
・子どもの性器露出シーン
・聖職者を笑いものにすること
・人種・国家・宗教に対する悪意を持った攻撃
また、いかなる方法においても、以下の要素を用いるときは、下品で挑発的な要素を減らし、その作品の良いところを伸ばすためにも、細心の注意を払うようにすること。

・旗
・国際関係(他国の宗教・歴史・習慣・著名人・一般人を悪く描かぬように気を付けること)
・放火行為
・火器の使用
・窃盗、強盗、金庫破り、鉱山・列車および建造物の爆破など(あまりにも描写が細かいと、障がい者に影響を与えるおそれがあるため)
・残酷なシーンなど、観客に恐怖を与える場面
・殺人の手口の描写(方法問わず)
・密輸の手口の描写
・警察による拷問(英語版)の手法
・絞首刑・電気椅子による処刑シーン
・犯罪者への同情
・公人・公共物に対する姿勢
・教唆
・動物及び児童虐待
・動物や人間に対して焼き鏝を押し付ける
・女性を商品として扱うこと
・強姦(未遂も含む)
・初夜
・男女が同じベッドに入ること
・少女による意図的な誘惑
・結婚の習慣
・手術シーン
・薬物の使用
・法の執行もしくはそれに携わる者を扱うこと(タイトルのみも含む)
・過激もしくは好色なキス(特に一方が犯罪者である場合は要注意)

(引用:Wikipedia)

ビリー・ワイルダー監督は、『お熱いのがお好き』(1959)で主役のジャック・レモンとトニー・カーティスに女装させた。

本作は映画協会を通さずに公開して大ヒットした。

アルフレッド・ヒッチコック監督は、『サイコ』(1960)の有名な浴槽で殺されるシーンを撮影するのに上記にひっかからないよう綿密に考えた。

次第にヘイズコードに反対して作られた映画が民衆に受けるようになり、アメリカ映画協会も認めるようになっていった。

そして1968年11月1日にアメリカでレイティングシステムが導入された。

この審査を受けなくても上映はできたが、アメリカの映画館の多くが、映画協会がレイティングした映画しか上映できない規定になっていた。

アメリカでは、主にG、PG、PG-13、R、NC-17に分かれている。

「G」“General Audiences”の略で、全年齢が鑑賞できる。

「PG」“Parental Guidance Suggested”の略で、鑑賞制限はないが、子供に見せる前に保護者が内容を検討することを提案したもの。

「PG-13」“Parental Strongly Cautioned”の略で、鑑賞制限はないが、13歳未満の子供には保護者の厳重な注意が必要。

ジョー・ダンテ監督の『グレムリン』(1984)と、スピルバーグ監督の『インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説』(1984)は、「PG」にするには暴力や残虐シーンが多く、「R」ほどの残酷描写はないのでレイティングをどうするか悩んでいた。

そこでスピルバーグが自ら頼み込み「PG-13」が制定された。

初めて「PG-13」で公開された映画は『若き勇者たち』(1984)

「R」“Restricted”の略で17歳未満の鑑賞は保護者の同伴が必要。

激しい暴力描写を想像するが、卑猥な言葉、喫煙や銃発砲シーン、そして子供の無許可での宿泊も含まれる。

そのため『スタンド・バイ・ミー』(1986)はR指定となった。

「NC-17」“No one 17 and under admitted/Adults only”の略で、17歳以下の鑑賞を全面的に禁止。

話を戻すと、『インモラル・ミスター・ティーズ』はその法をうまく利用して作り上げた。

セックス描写は映せないがヌードは映せた、そんな時代。
そのため女性は全裸か半裸。
このジャンルは“ヌーディー・キューティー”と呼ばれ流行した。
家事をこなしポーズをとるだけ。
男性はのぞき魔か、背徳者か逃亡者のどれか。
というその時代ならではの不思議なジャンル。
このジャンルは流行し似たような映画が大量生産された。
それに乗っかって8千ドルの資金でハーシェル監督と製作フリードマンのコンビが制作したのが、『The Adventures of Lucky Pierre』(1961)
ハーシェルは撮影、フリードマンは録音も担当し、完全に二人で作り上げた。
内容は変な顔をする男と、脱ぐ女たち、それ以上に何もない。
しかし本作は彼らが次の映画製作を続けられるほどの収益をあげた。
そして撮ったのが『Daughter of the Sun』(1962)
これはセックスを含まないヌーディストキャンプもので、太陽や自然との一体化を表現した清々しいジャンルである。
つまり人間の原点回帰。
同年、『Nature’s Playmates』(1962)も公開。
こちらも同様だが、お目当てのキャンプ場面だけカラーで撮影され、それ以外は白黒である。
つまり『オズの魔法使』の進化版だ。
1963年『Boin-n-g!』が公開。
7、8人で撮られ、撮影機関は4~5日。ハーシェルが監督、フリードマンが録音を務めた。
2人の男がヌーディー映画を観た後に、1人が映画製作を提案し、2人で製作するという半自伝的映画。
他にも同年、とにかく脱ぎまくる映画『Bell, Bare and Beautiful』を公開。
しかしこの頃には皆が儲けるためにヌード映画を撮っていた。
そのため、ハーシェルらは新しい種類の映画を考える必要があった。
それは大手の会社が作りたくても作れない映画で、劇場と観客が求める映画でなければならなかった。
そして1963年に誕生したのが初代スプラッターまたの名をゴア映画『血の祝祭日』
“ゴア”という呼称はハーシェルが考えた。
ゴアとは血のりのこと。
“スプラッター”という言い方は80年代に定着した。
80年代はスプラッター映画が大量生産された時代である。
この映画の構想は、ハーシェルがマイアミで宿泊していたスエズ・モーテルの表にスフィンクスが飾られていたことから浮かんだ。
そのスフィンクスがエジプトの話を思いつかせた。
思い立ったら行動に移すハーシェル。
フリードマンが主演の女優を探しにプレイオーイクラブを訪れて出会った人物がコニー・メイソン
出演を依頼するも、フリードマンの存在を知っており一度は断られた。
しかし新作がヌード映画ではなく、ホラー映画だと伝えると受諾。
しかし彼女はセリフは覚えず、遅刻ばかりなのに“主役”として振る舞ったため、ハーシェルには嫌われていた。
一方、同じく主役のビル・カーウィンは自身の撮影以外でも積極的に動き、脚本も手伝ったり裏方としても働いた。
物凄く親切だったため、皆に気に入られていた。
しかし撮影を終えると、ホテルでウィスキーを1本空けて酔いつぶれていたという。
それでも翌朝はしっかり起きて仕事をこなすオンオフができる人物であった。
本作の肝となるゴア担当を演じたマル・アーノルドは、当初違う役を予定だったが、主役のオーディションを受けるようハーシェルが勧めて役を得た。
物語は女性たちがフアド・ラムゼスという料理人に出会い、晩餐会の料理内容を提案してもらうと彼は「エジプトの晩餐」と答えた。
ラムゼスは儀式を行う家系の最後の子孫という設定。
この儀式は古くからおこなわれていたが、残虐だったのでファラオが反対して儀式は表向きには封印された。
しかし彼が密かに行っていたというもの。
これは少し脚色されているものの実話に基づいている。
人肉を焼いたり、えぐったり、そして内臓を手で揉みながらぐちゃまぜにする様子をアップで撮ったり、悪役の目元をドアップで撮る、そして被害者は毎度女性のみなど、以降のハーシェル作品で必ず見られる撮影手法の始まりである。
人の内臓は豚の心臓を使用している。
彼の作品はゴア描写の見せ方にひたすらこだわっている。
といってもストーリーも最高だよ。荒いけれど。
本数を重ねるごとに異常さを増していくので注意が必要だ。
封切りはピオリアのドライブインであった。
ハーシェルとフリードマンは我慢できずにそれぞれ妻を連れて観に行った。
映画の感想を妻に求めると、「吐き気を催した」と言われたため、
翌日50万枚の小さい袋を注文して、
“『血の祝祭日』を観たらこの袋が必要だ”と印字した袋を公愛の1週間前にすべての映画館に配布した。
実際に吐いた人々もいたという情報が製作陣の耳に入った。
ドライブインではゴア描写が映されるたびに拍手のようにクラクションが鳴り響いた。
身体の部位や手足が切られた体、人食いを扱うスプラッター映画は当時存在しなかった。
当時LAタイムズの記者であったケビン・トーマス氏は本作をこう評した。
“『血の祝祭日』は米国映画産業の汚点”
公開後はあらゆる団体に目をつけられ揺さぶられたとハーシェルは述べている。
“血”がつくため題名すら載せない新聞もあった。
しかしわいせつ描写やヌードも含まなかったため、本作を取り締まる法律はなかった。
そのためこの作品公開後に数々の規制が制定されたほどだ。
1964年、愉快な作品が誕生『2000人の狂人』
南北戦争で北軍に全滅させられた南部の村に住んでいた2000人の住人たちの怨霊が戦争終結から100年後の記念祭で復活し、北部からやってきた旅行客を村に誘いポップに殺してバーベキューにしていく話。
まさに『悪魔のいけにえ』(1974)の原点。
ハーシェル作品で何度も見るならこの作品を選ぶくらい楽しい1本。
もちろんゴア描写も健在。だけれど笑える。
トゲトゲが中についた樽にヤンキーを入れ坂道を転がしてみんなで楽しむ。
岩を上から落としたり。
印象的な陽気な主題歌を作るため、ハーシェルは世界一のバンジョー弾きとギター弾きを雇った。
しかし彼らの声が思ったより高くてイメージと違ったため、ハーシェルは自分で歌うことにした。
「100年前の話だけど、100年待ってようやく話すよ。ヤンキーが聞いたら恐怖で震え上がるぞ、南部は復活するぞ。リー将軍は銃をひざでたたき折り、破片は粉々に飛び散った。そして彼の兵を集めて空を見上げ、恐ろしいセリフを口にした。南部は復活するぞ。北軍はストーンウォールに苦しんだが、彼は銃弾を浴び苦しんだ。死に際にストーンウォールは語った。最後の望みをかなえておくれ。南部は復活するぞ。」といった歌詞。
本作は『血の祝祭日』ほど興行的成功はしなかったが、内容は評価され、映画史的にはハーシェルの名が残る作品となった。
1964年『カラー・ミー・ブラッド・レッド』を発表。
批評家から色彩がパッとしないと批判される画家が悩んでいると、指を軽く切ってしまい血が出ていた婚約者を見てよからぬことを思いつく。
そうだこの色だ!
そして婚約者の指の傷を切り開き、その血でパレットに色付けするのであった。
この作品の撮影でハーシェルとフリードマンは口論して仲たがいしてしまう。
それぞれ別の道を歩んだ。近年では再び仲良くなっている。
同年の『Moonshine Mountain』ではフリードマンはハリウッドへ行ってしまったため、ハーシェルは彼抜きで制作した。
その後、ジム・ベイカーというショー演出家に出会った。
とある劇場で土曜日の昼に興業の空きがあったが、成人映画は昼に上映したくなかった。
そのためハーシェルに撮影を依頼し、彼のショーを上映することになった。
そして1966年『The Magic Land of Mother Goose』を上映。
この作品にはプロの奇術師が演出と出演に関わっていた。
マザーグースを題材に、基本的に子供向けに演出されていたが、魔女が火葬場に連れて行かれ生きたまま焼かれるシーンでハーシェルはゴア描写を忘れなかった。
棺が開けられると彼女の骨が燃えているというものだ。
次に撮った『サムシング・ウィアード』(1966)では黒魔術と闘う男を描いた。
ハーシェルは超能力者の知人がいたジム・ハーレイという大学教授と共に作り上げた。
1967年に発表した『A Taste of Blood』はドラキュラ伯爵の子孫が殺戮を繰り返す物語だ。
しかし本作はゴア描写が控えめであった。
それは多くの劇場の支配人から、流血描写がひどくなければ上映すると言われたためである。
ハーシェルは本作を“現代版ドラキュラ”と謳っているが、彼のベストホラーは『魔人ドラキュラ』である。
1967年は怒涛の勢いで映画を制作し続けた。
途中で別の仕事が入ったため未完成に終わった『An Eye for an eye』(1967)は、盲目の男性が目を移植する手術を受け、手術後に特殊能力が身につくという話。
『Blast-Off Girls』(1967)はひたすら踊りまくる話。
『The Girl the Body, and the Pill』(1967)は過激な性教育をしたためクビになった高校教師の話。
『悪魔のかつら屋』(1967)ではハーシェルの大好物であるKFCと契約して劇中に登場させた。
撮影現場には毎日100ピースのフライドチキンが1か月間届けられた。
『An Eye for an eye』(1967)にも登場させている。
そしてなんと『Blast-Off Girls』(1967)にはカーネル・サンダース本人が登場しているのだ。
彼はあまり満足していなかったそうだが。
撮影前にKFCの上層部から直接ハーシェルのもとに連絡が入った。
「イリノイ州のKFCを映すならランチを提供する」
そして当日カーネル・サンダースが直接チキンを振る舞ってくれたが、彼はダメ出しを結構してきたという。
リハーサルを57回求め、自分中心の映画にしようとしたのだ。
結局彼の言うとおりにリハーサルを行った。
気に喰わなかったハーシェルは、彼に移動するので続きは後で撮るとウソの情報を伝え、彼がいなくなった後に普通に撮影した。
1967年の映画の中で『悪魔のかつら屋』(1967)にはゴア描写をとことん入れた。
女の子のお腹の内臓を取り出すシーンは、ニワトリの皮をお腹に伸ばし、ワックスを塗った上にいくつかの動物の内臓を裂いたゴムで固定して撮影した。
ハーシェルは70分の映画にするつもりだったが、完成した本作は62分しかなかったためどうするか悩んだ彼は、驚くべき方法で乗り切った。
彼の事務所にあった2つのマネキンの頭部に発砲スチロール製のかつらを被せた。
そしてアフレコして8分間会話してもらった。
1968年『シー・デビルズ・オン・ホイールズ』は、ただ女性がバイクに乗り暴走する映画だった。
当時はバイク映画が大当たりしていた時代。
そこにハーシェルも乗っかり、女性が男性をボコボコにする本作は意外と受けた。
そしてもう一本、『快楽集団』ではモラルの欠如した若者をとにかくたくさん登場させて怒りをぶちまけた。
年配の人が考える若者のやりそうなことを詰め込んだ“究極の若者非行映画”であった。
ベトナム反戦運動が広がるアメリカでの若者ヒッピー文化を取り入れたのだ。
ハーシェルは非常に流行に敏感であった。
1970年に公開された『血の魔術師』は何とも都合のいいゴア描写の見せ方だった。
ゴア担当の主役の職業がマジシャンで、観客に自在に催眠術をかけることができるのだ。
なのでそれを利用し、残虐の限りを尽くす。
催眠術をかけた観客を誘導してステージ上にあげる。
そして、頭に釘を打ったり、
剣を口の中に入れかき回したり、
圧縮機で頭を押し潰したりする。
チェーンソーで女性のお腹を真っ二つにするシーンは、ニワトリの腸やソーセージが使われた。
臭いが凄くて撮影が大変だったと魔術師役のレイ・セイガーは語っている。
ステージを眺める観客も催眠術にかかっているため、ステージでは成功したマジックを見届けている。
しかし実際は殺人が行われているという大変悪趣味な変態映画。
その場ではステージに上がった観客は何ともないが、魔法が解けた後日、同じ方法で死んでいる姿を発見されるという代物。
このステージマジックの撮影は夏休み中の小学校で行われたというのも笑える。
魔術師がまた良い個性を発揮していて、私の個人的に好きな悪役に加わるくらい。
ステージ上で毎度お決まりのセリフを言ってマジックをスタートさせるのだが、2回目以降はそれを待っている自分がいる。
発音と声の抑揚が可愛らしい。
「アイアームモンターグ!」
ハーシェルの引退作品となる1972年『ゴア・ゴア・ガールズ』では、彼の持つゴアアイディアの全てを出しきっている。
本作こそあまりの気持ち悪さに私は吐き気を催してしまったくらい。
女性のお尻をハンマーで叩きつけ、血まみれになった傷口に塩を撒く謎の行為だったり、顔にアイロンしたり、目玉をくり抜いて潰したり、乳首をハサミで切って母乳を2つのグラスに注ぎ、1人で乾杯する犯人といった頭のおかしい演出が光る。
思い出しただけで吐きそうだ。画像は載せないでおこう。
まさに本作はハーシェルにとって集大成である。
1975年、映画界から引退した彼はダイレクト・マーケティング広告業界で活躍した。
『The Businessman’s Guide to Advertising and Sales Promotion” 』(1974) や、『How to Handle Your Own Public Relations』(1977)などを含む広告とマーケティングに関する多くの本を執筆した。
そして2002年『ブラッド・フィースト 血の祝祭日2』で映画業界に復帰。
そんなハーシェル・ゴードン・ルイスは2016年9月26日87歳で死去。
2017年には遺作『Herschell Gordon Lewis’ BloodMania』が公開された。
ありがとうハーシェル。
私の映画人生にとってゴア映画は必要不可欠。
これからも楽しみます。

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