【始劇+終劇+始劇】おめでとう、全てのエヴァンゲリオン。

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【始劇+終劇+始劇】
おめでとう、
全てのエヴァンゲリオン。

エヴァンゲリオン、この作品にここまで苦しめられるとは。
ここ2か月以内でTVアニメシリーズ旧劇場版新劇場版、そして『シン・エヴァンゲリオン劇場版』を制覇しました。
リアルタイムで追いかけてきた熱狂的なファンほどの思い入れもないのにもかかわらず、ここまでハマってしまった理由は何なのか。そしてなぜこんなにも感情が溢れ出すのか。
この作品には自分の人生そのものが描かれていた。
これまで味わってきた虚しさ全てが。
碇シンジの物語は僕の物語でもあった。
つい最近までただのロボットアニメだと思っていたので、こんなにも綿密かつ具体的に自分自身の内面が描かれていることに圧巻すると同時に嫌悪感を抱きました。
今は“大人”になったので自分を客観的にみる余裕がありますが、そもそも大人と子供の境は何なのか。
人間ならば、ふと虚しくなる時はあると思います。
私の場合、孤独を感じないために映画を観るのかもしれません。
さらに映画で得たことは実生活でも活かせるし、それは映画業界に携わるという自分の夢に向けての勉強でもあります。
当初アニメシリーズを観ていても、はいはい、定番のロボットアニメですね、と楽しめていない自分がいました。
しかししかし、第14話…これは様子のおかしいアニメだと気付きました。ここから沼にハマるのであった。
なんだこの『ブレードランナー』『2001年宇宙の旅』を見ている感覚。
人間の尊厳や生き方、全ての感情を伴って押し寄せてくるに立ちすくんでいる気分。
が緩やかな時も激しい時もそこからは絶対に離れられない。
「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ」と言い聞かせることしかできない。
れに身を任せるしかない。
不条理な世界にりを感じながら。
こんなにも考える余地のある作品に出会えて幸せです!
今から約1万字書きます!!
それでも書ききれないので、いや思い出しては書き足しての繰り返し。
まさに『エヴァンゲリオン』。
聖書、福音書。Evangelion。
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私の序

この作品で大きな魅力となっているのは、人間の感情の構造を客観的に見ることができること、そしてそれに伴うキャラクターごとの行動の違いだと感じています。
喜怒哀楽、同じ感情を抱いていても表情がそれとは一致しない人、喜びと虚無という真逆の感情、暴走と制御といった真逆の行動を介して視聴者を惑わしてくる。
これは作り物の世界ではなく、我々が住むこの世界そのものを表している。
誰しもが自分を偽り、本性は心を許した者にしか見せません。
そしてその場その場で発言が変わる人もいます。それは無責任ではなく仕方ないことでもある。
なぜならその時々に言うことは決して嘘ではなく、その時の感情とともに発した言葉であるから全て本当である。これは『シン・エヴァンゲリオン』でシンジ君の父親ゲンドウが同じことを言っていた。
しかし言われる方はその言葉に惑わされる。
なぜなら厄介なことに人間は嘘をつくから。
信頼関係が成立している者同士でない限り、それが真実なのか嘘なのか見抜くのは極めて難しい。
嘘をつかれると感情論は通用しなくなる。
故意的な嘘は、それを本当のことだと思わせることが可能になるのだから。
もしも信頼している者に欺かれたのなら、それはそれで心の傷として一生残る。
人間は繊細で複雑で弱い生き物である。
人と人は表面上は分かり合えても、理解し合うことはできない。
感情は言葉を超えるから。
言葉というのはあくまでも伝えるための手段に過ぎない。
感情は常に不安定だから自分自身で予測がつかない。
言葉に救いを求めても心は救われないと個人的には思っています。
もし救われたと思うのならば、それは言葉に騙されて疑似の安心感を得ているだけ。
孤独は隙あらば弱い人の心を蝕もうとする。
碇シンジはじめ、エヴァのパイロットたちの14歳という年齢は視野が狭く、物事に左右されやすい。
それは仕方ないことである。学校や規律に縛られつつも、大体の人は保護者がいることで安心に暮らすことができる。守られている者たちが、世界を守る側に立たなければならなくなることによって生まれる葛藤を描くには14歳でなければならない。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』では眠りについたシンジくんが14年後に目を覚ますが、これは再び14歳として生まれ変わることと、14歳までしか成長できないことを意味している。
エヴァの呪縛とは思春期から脱却できないということではなかろうか。
タイトルの字体も「エ」が旧字体の「ヱ」になり、始まりを意味するア行の「オ」は終わりを意味する「ヲ」に、「劇場版」「新劇場版」となって生まれ変わりを示唆するカタチで書き換えれれている。そして完結篇の『シン・エヴァンゲリオン劇場版』では全てが元通り。
過去と現在と終わりと始まりを繰り返す物語。それが人生そのものであるから。
碇シンジの心が成長しない限り、14歳の肉体のままである。
押見修造さんの『惡の華』という作品も似たようなことが描かれていた。
思春期は始まりは来るが、終わりはどこかわからない、終わらせるのは自分次第でしかない。
この作品もまた、最初と最後が繋がる成長の物語である。終わらせるには碇シンジが自分で終わらせるしかない。
14歳という年齢は早くなければ童貞処女が多数。
シンジくんが在籍するエヴァパイロット養成所のようなクラスメイトはそれに値する。
これは描かれていないが、おそらく恋愛禁止の規則があり、生殖機能を抑制されているのではなかろうか。まだ穢れの知らない純粋無垢な子供を維持するために。さらに彼らには親がいない。孤独を抱えるため、大人に生きる目的や任務を与えられると嬉しいという感情をもつ子供もいる。そういった孤独が劇中の大人にとっては都合がいいのだ。
シンジくんは欲望や感情に素直です。それを象徴するシーンが『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』の冒頭からシンジくんが入院して意識を失っているアスカの裸を見ながら自慰行為に耽る場面があります。いきなりすぎて焦るとともに、アニメであっても手に出した白い液体を見せるんだと驚きました。
ここで注目なのは、自分が助けなかったせいでアスカが倒れたにもかかわらず、そういったことをした点である。文字通り、自ら慰める行為をしたのだ。
アスカに申し訳ない気持ちで葛藤しつつも、僕だって誰も助けてくれないという孤独感と、裸のアスカを見た時に押し寄せる性欲に勝てずに射精するも、アスカに直接出すのはマズイと思ったシンジくんが自らの手で阻止するのだ。感情を抑制できなかったが、間違ったことの判断は一瞬で下せたともとれる。この人間らしさが物凄く好感を持てる。
男子が性的快感を初めて自ら得る平均年齢は14歳であるから。
エヴァにおける性描写はそれぞれのキャラの本性を見せるきっかけとして重要である。
ミサトさんが女になる瞬間とかですよ。愛し合う者の前でしか見せないありのままの姿。
14歳は身体的には成長期の真っ只中だが、同時に自我にもがき苦しむ時期でもある。
後者はやっかいだ。
いざエヴァに乗り込むと、操縦席は水の中。
これは母体を思い起こさせる構造であり、つまり自我の芽生えた少年少女をその中に入れることで安心感を与えようとしている。そこに任務の度に戻ることはキリスト教の“洗礼”の役割を果たしている。
また、シンジの乗る初号機には母親ユイが取り込まれているのでもはやそれでしかない。
しかしそんな単純にはいかないのが人間。
使徒との戦いの中で、彼らの怒りや苦しみの感情が暴走すると、同じくエヴァも暴走する。
制御できないお年頃なのだ。怒りシンジである。
感情と連結しているのだから面白い。
それではもっと幼い子を使うか、大人を使えばいいと思う人もいるかもしれません。
前者は体力面や、複雑な命令を理解することが難しい年齢であり、後者は操縦は可能だが、子供よりも感情を制御できるが故にエヴァの力を使って私欲を満たそうとしてしまう可能性がある。
そうして身体をエヴァに乗っ取られてしまうだろう。
だから大人は世界を救うという名目のもと子供を搾取して、その目的に利用される大人だっていれば、自己の利益を追求する汚い大人も登場する。
上記のエヴァについては『ロード・オブ・ザ・リング』の指輪の魔力と同様だ。
フロドだから指輪を運べたが、彼でさえ危うかったのだ。
選ばれし者には理由はあるが、何も最強なわけではない。
弱さがあるから、それを埋めようとする、それに代わる強さがある。その強さは人それぞれで違う。
弱さは人と人との繋がりで補える。
人との繋がりを避けるのであれば、孤独になる。
容姿、身分、性別などなど違いばかりしかない人間同士が関係を構築するにはそれなりに努力が必要になる。そして恋人関係になり、それを維持するには妥協や我慢も生じてくる場合がある。
それならばその差異を極限まで無くしてしまえばいいと考えたのがシンジくんの父ゲンドウ。
彼は最愛の妻を失っている。
彼女を蘇らせることが願いであり、そのためにエヴァンゲリオンの物語を築いた。彼の存在がなければ、彼の葛藤と孤独への苦しみがなければ、こんなにも長くこの作品が続くことはなかった。
具体的にどのような行動で孤独から解放されるのかと思ったら、人間を魂に変えてしまおうというものであった。その単位にまですれば、価値観の違いや差別はなくなるという考えである。
全人類を巻き込んでそこまでやらなくてもいいと思う人もいるのは理解できるけれど、僕はゲンドウに少し共感できるが、反対ですね。
怖い考えではあるし、そこまでして孤独を味わいたくないのかと。
孤独を楽しもうとはできなかったのか。
恋人を失っても、生きていけば新しい人が見つかるではないか。
『タイタニック』のローズだって、ジャックを亡くしてから違う人と結婚して幸せに暮らしていたではないか。
といっても小学生で初鑑賞した際にはこんな経験して、そしてあの時ジャックに「絶対にあなたを離さない」とか言っていたのに、なんで知らないおっさん(お前が知らないだけだろ!とローズの言い分)と結婚できんだよ!と怒りシンジになり、女性不信に陥りましたが、後々次の幸せを見つけることで立ち直れるということを実体験しましたのでローズに対して不起訴の判決を下すことができました。
悲劇と喜劇は常に表裏一体。
周りの価値観を変える必要はない、自分の価値観を変えて可能性を広げて前に進めば必ず喜びが待っている。
ところで『シン・エヴァンゲリオン劇場版』では、シンジくんの周りの同級生たちの見た目が大人へと変化していました。当然です、28歳以上になっているのだから。
怖いのは、見た目が14歳の時と変わらないシンジくんに対して何の違和感もなく話しかけてくるのです。
これは我々の日常生活でもよく起こること。
僕自身感じている。
周りがどんどん結婚して、子供ができ、役職が上がり、心身ともに成長していく。
数年ぶりに会って話してもどこか壁を感じる。学生時代とはまるで違う何か。
それによって関係性が変わることはないけれど、寂しさを感じずにはいられない。
自分は何も変わっていないのかと。いつまでもエヴァの呪縛に囚われているのかと。
言葉にならない空虚な思い。
それが『シン・エヴァンゲリオン劇場版』の冒頭では描かれていました。

それぞれの綾波レイ

人はみな何かを誰かを失っている。
傷ついたり、違う自分を偽ったり、自己嫌悪に陥ったりするのはあなただけじゃない。
だからこそもっと話を聞いて欲しかったとか、話し合いたかったとか思うこともある。
愛を分かち合える人に出会えることは運命だと思う。
運命は困難を乗り越えたり、何かを望む人が努力することで自然とその人が手繰り寄せた結果だと感じている。
一度壊れたものを元通りに修復することは不可能である。
これまで何度も修復できるシンジくんが羨ましいと思っていたけれど、『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』からは喪失の連続である。救ったはずのレイは別人のようになり、アスカには愛想を尽かされ、ミサトさんは他人のようになっていた。
自分が戦ったことで引き起こしたサード・インパクトのせいで世界を破滅に導き、身近の人を変えてしまったと自己嫌悪を引き起こす。
『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』では、自分が戦わないことで周りの大切な人々が死んでいった。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』では、戦っても戦わなくても自分のせいでみんなが傷つくのならば何もしない無の境地にはいってしまえということで悟りを開く。
その葛藤は痛いくらいにわかる。
好きな人ほど傷つけてしまう。もっと理解したいから勝手な憶測が裏となり誤解を生む。
最初は話すことで解決できるが、そういったことを繰り返すと相手も自分も疲弊してしまうため、離れた方がいいという決断に至る。
愛だけではどうにもならない問題。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』では、宇多田ヒカルのエンディング曲『One Last Kiss』にトドメを刺されました。
宇多田ヒカル『One Last Kiss』

「写真は苦手なんだ」
でもそんなものはいらないわ
あなたが焼きついたまま
私の心のプロジェクター
寂しくないふりしてた
まあ、そんなのお互い様か
即ち傷つくことだった

Oh, can you give me one last kiss?
燃えるようなキスをしよう
忘れたくても
忘れられないほど

Oh oh oh oh oh…
I love you more than you’ll ever know

もう分かっているよ
この世の終わりでも
年をとっても
忘れられない人

Oh oh oh oh oh…
忘れられない人
Oh oh oh oh oh…
I love you more than you’ll ever know
Oh oh oh oh oh…
忘れられない人
Oh oh oh oh oh…
I love you more than you’ll ever know

吹いていった風の後を
追いかけた 眩しい午後

彼女の歌詞は心に突き刺さる最低限の言葉をピンポイントに押さえ、それを幻想的なメロディにのせることで…うん、卒業式の感覚に近いです。
それから彼女の曲を久々にいくつか聞き返したのですが、全てエヴァンゲリオンについての曲に聞こえるんです。
『One Last Kiss』の中では、“忘れたくない人”というワードがしつこいくらいに繰り返される。それぞれの忘れたいことや忘れられない人やトラウマが嫌でも頭にチラつく。
シンジくんに置き換えるのなら、エヴァに乗ること、渚カヲルの死、綾波レイ、アスカ、ミサトさんの存在がそれに値する。
忘れて次に踏み出しているのに思い出させる。
冷静になった今考えると、苦しいから忘れたいのに忘れさせてくれない恐怖の歌にも感じられる。
うん、忘れる必要はない。だって忘れたくないことだもの~。
自分の気持ちに嘘をつくのも人間の複雑な作りの一つであるため、僕はそれを単純化したいので、後悔は後悔のまま残しておきます。
このタイミングでエヴァに出会ったのも運命であるわけです。
人は自分を特別視しがちなところがありますが、それでいいんです。
だって生きることは自分が主人公の物語を書き上げていくことだから。

本当の自分と偽りの自分

渚カヲルポジティブ・シンジ
ネガティブな感情がなければ、迷うことはなく、悩むこともない。
それを経験してこそ向上心や成長に繋がる。
かといって常にポジティブだと、自分に対して過剰な自信が生まれて力不足が露呈する時がやってくる。そのときネガティブくんが挨拶しにくる場合もある。
この2つの割合がその人の性格を模る。
カヲルくんとシンジくん。強い自分と弱い自分。シンジの分身がカヲルである。
弱者の心は強者の甘い言葉に騙されやすい。
かつて世界を救う希望だった碇シンジは純粋が故にダークサイドに堕ちてしまう。
パドメを救うため自らの意思で堕ちたアナキン・スカイウォーカーとは違い、誰のことも直接傷つけない純粋悪はやっかいである。
人の中に存在する2人の自分。
どちらも弱くなれば誰かの助けが必要となる。
シンジくんは助けを求める相手もいなく、いつも一人で苦しみ、悩み、迷い、そして結局何かを失ってしまう。
シンジくんは口数が少ないが、現実世界ではその原因はコミュニケーション能力に置き換えられる。
言葉は人に愛を伝えることもできるが、死に追いやってしまう場合もある、大変危険なもの。
人類はそこまでしてなにを伝えようと進化したのか。我々はいつもエヴァの中にいるのかもしれない。
伝えなければならないことが伝わらず、余計なことばかりが伝わってしまう昨今ですが、今一度自分は何を伝えるために話すのか考えねばならない。
虚構と現実を作り出すのは言葉そのもの。
映像作品を見るにあたってはその境が曖昧な方が心地良いと感じるが、現実世界ではそうはいかない。
それにしてもカヲルとシンジの温泉シーンは萌えた。BL萌え。

さらば、全てのエヴァンゲリオン

人間は悲しい。
悲しみは平等に与えられるけれど、喜びを得るには何らかの行動をする必要がある。
これまで封印していたが、ここ数年でようやく区切りをつけられた自分自身の虚しさと改めて決別できました。
『シン・エヴァンゲリオン劇場版』は僕にとってかなり重要な作品として刻まれました。
弱い自分を制御する方法を得たので、涙は最小限に、しかし嗚咽は抑えきれませんでした。
僕にとって自分が泣くという行為は弱さの象徴であります。一人で泣くことはあっても、誰かといる時には一切泣きません。強がるわけではなく、泣くと制御をできなくなるので危険なのです。
幼少期に十二分に泣いて泣いて泣きまくって内気で自分の殻に閉じこもって、自分のことが嫌いな時期もあって、どうにか目立たない方法を考えて、目が悪いのを利用して嫌いな自分の顔を鏡で見る必要もなくなり、周りの顔もぼやけさせることで緊張を和らげ、外部との接触を最低限に抑えて過ごしていたあの時期。あの頃、嫌になるほど泣きわめいていたので枯れました。イヤホンで外界と遮断して現実逃避するシンジくんの気持ちがわかる。
しかしありがたいことに周りのクラスメイトが積極的に話しかけてくれ、いろんな人と接することで解き放たれた気分になり、次第に自分を演じ分けることに快感を得て、今の自分に繋がる。あの頃には考えられなかったほどに、今の自分は自信に満ち溢れている。かといって物凄く自分のことが好きになったわけではない。自己嫌悪は常に付きまとっている。
だからあの過去も絶対に必要だったと今では思う。
その記憶も曖昧になっているのが成長の証である。おめでとう。
人生は何度でも上書きできる。
だから時には逃げてもいいと思います。
しかし逃げた過去は現在と切り離せません。
現在からの視点で過去を振り返った時に、それが自分にとって必要な逃避ならば成長の証として消す必要はない。
過去・現在・未来は円環として存在する。
何でこんなにも長年エヴァンゲリオンは同じ物語を繰り返すのだろうかと思っていましたが、ようやく本作を観てわかりました。
TVアニメシリーズ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996)、その再構成である『新世紀エヴァンゲリオン劇場版シト新生』(1997)、その再編集と続編を合わせた『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 DEATH(TRUE)² Air/まごころを、君に』(1998)、TVアニメを新たな設定とストーリーで再構築した『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』(2007)、TVアニメの途中も描きつつ新キャラクターも加わった別時間軸の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(2009)、それから14年後を描いた新たな物語である『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(2012)、全てがこの最後のために繋がる物語であったことを証明する完結編『シン・エヴァンゲリオン劇場版』
全てを追いかけて見続けてきた人には、忘れかけている過去を今の時点での自分の視点から振り返る機会をその都度与え、僕のような短い期間で一気に見返した人には、過去がクラッシュバックするかのように記憶を蘇らせたいのだろうと勝手に思っている。それが自然と脳内で行われる展開になっているのも驚きました。文字通り全てのシリーズがフラッシュバックするシーンが描かれるのだから。
過剰なくらいに過去に対する答えを突きつけてくれる。
そんなケジメと再生と始まりの物語。
そして心身の成長、感情の変化、愛と孤独と喪失と出会いの物語。
それを繰り返すのが人間の一生。
エヴァンゲリオンで描かれているシンジと父の確執は『スターウォーズ』を彷彿とさせます。
両方とも根幹にあるのは“神話”です。
ルークとダース・ベイダーの関係性。ルークは最後に父を救うことができました。
また、ジェダイやライトセーバー、フォースというものが当たり前に存在していて、戦闘がどうやらすでに始まっていて、視聴者を異空間に置き去りにする方式はまるで一緒である。
エヴァの世界はセカンド・インパクトによって世界人口の半数が失われた世界。
突然戦いに参加させられ銀河の全てを託されたルーク・スカイウォーカーのように、碇シンジも同じ運命を突きつけられる。わけわからないと思うのは当然で、我々視聴者も彼らと同じく主人公目線で世界に入り込める仕掛けこそが魅力である。
今の作品は全て描かれすぎで想像の余地がなさすぎる。
だからエヴァンゲリオンはそれぞれの考察でいいんです。
だって正解はないんだから。数学でも科学でもない。
それぞれの人生観とこれまでの経験に左右され、穴を埋めていく一人一人の物語なのである。
それが完成する時は自ら物語に終止符を打った時。
それまでは人生に降りかかる困難にどう立ち向かうかを試されているんです。
使徒が人間の行動を試しているように。
世界に平和と秩序をもたらすことって宇宙規模の戦いが必要になるかと思いますが、映画的にはもちろんその展開が見せ場として必要なのですが、実際の現実世界では自分にとっての身近な存在と幸せを分かち合うことで均衡が保たれるんです。無数の人間がみんなそうであれば争いは起きません。
それができないから人間は不思議なんです。感情と表情にズレが生じるから。嘘をつくから。複雑だから。
でもだから面白いんです、人と話すのは。
『エヴァンゲリオン』では明確なことが描かれず分かりづらいのは、あえてそうしているのだと思います。
孤独と仲間。
誰かと繋がるには努力とそれなりの行動力が伴います。
「それってこうだと思う」という考察や推測を誰かと直接話し合ってほしくて、孤独を感じて欲しくなくて、あえて描きすぎていないのだと思います。
永遠に答えのない作品を創り、争いではなく話し合いを維持させるために。
素晴らしい。
そんなこんなで、ついにシンジくんはこの度14歳を卒業しました。
容姿は変わり、少し大人になった。
手を差し伸べてくれる人も今の彼にはいる。
アスカやレイに対する曖昧な気持ちにも決別もできた。
ミサトさんに対する責任も果たした。
父とも理解し合えた。
もう自分のために生きろよ、シンジくん。
これまでを振り返る余裕がある者は、これからを精一杯生きる強さを身につけているから無敵。
ありがとう、全てのエヴァンゲリオン。
終劇
よく生きた、今までの自分。
始劇

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