都市伝説紀行
1977年にゲーム会社アタリは家庭用ゲーム機『アタリ2600』を発売。
約1,050万ドルの製作費で作られた1982年公開の映画『E.T.』はアメリカだけで4億ドル以上、世界で8億ドル近くの興行収入をあげ、同じくスピルバーグ監督作『ジュラシック・パーク』(1993)に抜かれるまでの間、世界興行収入1位を保持していた。
そんな中アタリ社からアタリ2600のソフトとして発売された『E.T.』のゲーム。
映画同様に売り上げを見込めるという甘い考えと戦略が招いた悲劇とは何だったのだろうか。
“世界1のクソゲー”という悪名高き偉大なる称号を与えられた『E.T.』。
1982年7月、当時世界で最も成功を納めていた企業であるアタリがスピルバーグに2100万ドルを支払い、『E.T.』のゲーム化権利を得た。
ゲームデザインに任命されたのは24歳のハワード・スコット・ウォーショウというプログラマー。
当時ウォーショウのアタリでの株は上がっていた。
彼が開発し、1982年5月に発売した『Yars’ Revenge』の売り上げが絶好調だった。
そして『レイダース/失われたアーク』のゲームを開発し終えたばかりだった。
スピルバーグは彼を“天才”と認めていた。
それからたった36時間後に次のスピルバーグとのコラボを考えていた。
「それは僕の人生で永遠に悪名を背負って生きていくことが決まった日でした。オフィスで座っていたら、アタリのCEOから電話を受け取りました。」
CEOは言った。
「ハワード、我々は『E.T.』のゲーム開発を終わらせる必要がある。それができるかい?」
「もちろん、できます!」
アタリ2600のゲームは製造に何週間もかかるカートリッジにデータ供給される。
もし『E.T.』がクリスマスに店頭に並ぶようにしなければならないのなら、それはハワードにとってキツイ日程だった。
CEOは言う。
「我々は9月1日には必要なのじゃ。」
それはたったの5週間後じゃないか!
通常ゲーム開発は6〜8ヶ月はかかり、5週間はありえない。
それから彼は言った。
「ゲームをデザインして、木曜日の朝に空港にいてくれたまえ。リアジェットがスピルバーグに会いに君を連れていってくれる。」
「確実に出来るかわからないけれど、何とかしました。それのことでいっぱいになりました。」
ウォーショウはカリフォルニア州ロサンゼルスのサニーベイルにあるアタリの本社からスピルバーグのところに向かった。
彼のアイディアは惑星間の電話を作るために部品を集めることによってE.T.がホームに電話をかけれるようにプレイヤーがE.T.を操作して手助けをするというアドベンチャーゲームだった。
プレイヤーは、ミッションを達成するためには政府のエージェントと科学者から身をかわす必要がある。
それを説明すると、スピルバーグは「パックマンのようなゲームにできないかい?」と促がしたという。
しかしクリエイターはオリジナルの物を創って勝負したいんだとウォーショウが説得すると、スピルバーグも同意した。
「私たちが何か革新的なことをするのは、本当に重要なことなんだ。『E.T.』は飛躍的映画だった、そして私たちは飛躍的ゲームを必要としている。」
アタリは『E.T.』をヒットさせる必要があった。1982年には20億ドルもの売り上げに到達していたが、ゲームよりも多くのことをできるようになった“コモドール64”のようなホームコンピュータの登場で、市場占有率を落とし始めていた。
「私の人生で最も厳しい仕事でした。」
アタリは400万本を初回生産するようオーダーした。報道によると予算は500万ドル、それは当時のゲーム史上最大規模の予算で、宣伝キャンペーンも大規模に行われた。
“E.T.は人間の友人の助けを必要としている、そしてそれは君だ!”
当時の雑誌広告にはそう書かれていた。
テレビCMは何週間も放送された。
スピルバーグはプロモーションビデオに出演した。
そしてウォーショウはロンドンで行われたプレミアに出席し、ダイアナ妃の正面の席を与えられた。
「ボスは“E.T.”の名前がある限り何百万も売れると信じていました。」
発売されるとすぐに“ビルボードトップセラー”に並んだ、しかしこのゲームには深刻な問題があるという話が広がり始めていた。
「ゲームをクリアすることはできるんだけれど、明らかに完璧ではなかったんだ。変な状況で突然終わることがとても多くありました。それが多くの人々を落胆させ、そのゲームから離れた原因でした。」
E.T.が不可解に穴に落ちて動けなくなるというプレイヤーからの不満の声があった。
10歳の男の子は“New York Times”のインタビューに対しこう答えた。
「僕らが到着した時、これを見るために世界中からやって来たファンの行列ができていました。そこに座って自分の過去を掘り起こされるのは奇妙なことでした。」
スピルバーグ監督作『レディ・プレイヤー・ワン』(2018)の原作者アーネスト・クラインもデロリアンに乗って見物に来ていた。
その映画では名作映画やゲーム、アニメキャラクターがたくさん出てくるため、観客はそれを見つけることが楽しみの一つでもあった。
ストーリーの肝となるのが、ヴァーチャルゲーム世界を創り出した作者がゲーム内に隠した“イースターエッグ”を見つけること。
この“イースターエッグ”という存在を初めて生み出したのが、ATARIが1979年に開発したATARI2600のソフト『Adventure』である。
そのゲーム内の決められた場所で特定のアクションをすると秘密の部屋の入ることができ、
そこには“作者ウォレン・ロビネット”と開発者の名前が書かれていた。
今となってはそんなのわざわざ見たくないかもしれないが、当時は画期的で宝探しのような感覚でわくわくしながら探していたのである。
『E.T.』もまた、イースターエッグとして開発者のウォーショウの名前が隠されていた。
これは『ストレンジャー・シングス』においても同じことが言える。
数々の映画からのオマージュを探すのはまさに“イースターエッグ”を探すワクワク感があるし、ダファー兄弟はそれを絶妙にあちこちに分散させている。
まさにドラマ全体があの時代の一つのゲームとして創られていると捉えることもできる。
そんな『E.T.』の発掘はアタリの製品が確かに投げられるように埋められていたことを証明していた。
『E.T.』以外のゲームソフトも大量に発掘され計1,300本にも及んだ。
しかし驚くことに実際に埋まっている数はなんと728,000本。
アタリで当時働いていたジェームズ・ヘラーがそう答えている。
深部に埋められているため、掘り起こすのが難しいという理由で発掘できたのが1,300本と一部に過ぎなかったわけだ。
発掘されたそれらはオークションにかけられたり、博物館に寄贈されたりしている。
ウォーショウが打ちのめされた瞬間と、ボロボロの『E.T.』が地から引き上げられる瞬間が劇中で確認できる。
「僕は究極に感情的になりました。僕が30年前に5週間で作った小さなゲームが、いまだに興奮を生み出していたなんて。感謝でいっぱいです。」
受注がなかったからだという。