世界1のクソゲー、アタリの『E.T.』が招いた崩壊と都市伝説

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出典:Pixabay

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世界の可笑しくも奇妙なニュースをお届けいたします。
世界1のクソゲー、アタリの『E.T.が招いた崩壊と都市伝説
あなたは聞いたことがあるだろうか。
会社を潰すまでに至った一つのゲームの存在を。
そして大量に売れ残ったソフトが砂漠に埋められているという都市伝説を。
これはロマンと真実を求めた一大プロジェクトの物語。

1977年にゲーム会社アタリは家庭用ゲーム機『アタリ2600』を発売。

1,050万ドルの製作費で作られた1982年公開の映画『E.T.』アメリカだけで4億ドル以上世界で8億ドル近くの興行収入をあげ、同じくスピルバーグ監督作『ジュラシック・パーク』(1993)に抜かれるまでの間、世界興行収入1位を保持していた。

そんな中アタリ社からアタリ2600のソフトとして発売された『E.T.』のゲーム。

映画同様に売り上げを見込めるという甘い考えと戦略が招いた悲劇とは何だったのだろうか。

“世界1のクソゲー”という悪名高き偉大なる称号を与えられた『E.T.』

19827当時世界で最も成功を納めていた企業であるアタリスピルバーグ2100万ドルを支払い、E.T.』のゲーム化権利を得た。

ゲームデザインに任命されたのは24ハワード・スコット・ウォーショウというプログラマー。

当時ウォーショウのアタリでの株は上がっていた。

彼が開発し、1982年5月に発売した『Yars’ Revenge』の売り上げが絶好調だった。

そして『レイダース/失われたアーク』のゲームを開発し終えたばかりだった。

スピルバーグは彼を“天才”と認めていた。

それからたった36時間後に次のスピルバーグとのコラボを考えていた。

「それは僕の人生で永遠に悪名を背負って生きていくことが決まった日でした。オフィスで座っていたら、アタリのCEOから電話を受け取りました。」

CEOは言った。

「ハワード、我々はE.T.のゲーム開発を終わらせる必要がある。それができるかい?」

「もちろん、できます!」

アタリ2600のゲームは製造に何週間もかかるカートリッジにデータ供給される。

もしE.T.がクリスマスに店頭に並ぶようにしなければならないのなら、それはハワードにとってキツイ日程だった。

CEOは言う。

「我々は91日には必要なのじゃ。」

それはたったの5週間後じゃないか!

通常ゲーム開発は68ヶ月はかかり、5週間はありえない

それから彼は言った。

「ゲームをデザインして、木曜日の朝に空港にいてくれたまえ。リアジェットがスピルバーグに会いに君を連れていってくれる。」

「確実に出来るかわからないけれど、何とかしました。それのことでいっぱいになりました。」

ウォーショウはカリフォルニア州ロサンゼルスのサニーベイルにあるアタリの本社からスピルバーグのところに向かった。

彼のアイディアは惑星間の電話を作るために部品を集めることによってE.T.がホームに電話をかけれるようにプレイヤーがE.T.を操作して手助けをするというアドベンチャーゲームだった。

プレイヤーは、ミッションを達成するためには政府のエージェントと科学者から身をかわす必要がある。

それを説明すると、スピルバーグは「パックマンのようなゲームにできないかい?」と促がしたという。

しかしクリエイターはオリジナルの物を創って勝負したいんだとウォーショウが説得すると、スピルバーグも同意した。

「私たちが何か革新的なことをするのは、本当に重要なことなんだ。E.T.は飛躍的映画だった、そして私たちは飛躍的ゲームを必要としている。」

アタリは『E.T.』をヒットさせる必要があった。1982年には20億ドルもの売り上げに到達していたが、ゲームよりも多くのことをできるようになった“コモドール64”のようなホームコンピュータの登場で、市場占有率を落とし始めていた。

「私の人生で最も厳しい仕事でした。」

アタリは400万本を初回生産するようオーダーした。報道によると予算は500万ドル、それは当時のゲーム史上最大規模の予算で、宣伝キャンペーンも大規模に行われた。

“E.T.は人間の友人の助けを必要としている、そしてそれは君だ!”

当時の雑誌広告にはそう書かれていた。

テレビCMは何週間も放送された。

スピルバーグはプロモーションビデオに出演した。

そしてウォーショウはロンドンで行われたプレミアに出席し、ダイアナ妃の正面の席を与えられた。

「ボスは“E.T.”の名前がある限り何百万も売れると信じていました。」

発売されるとすぐに“ビルボードトップセラー”に並んだ、しかしこのゲームには深刻な問題があるという話が広がり始めていた。

「ゲームをクリアすることはできるんだけれど、明らかに完璧ではなかったんだ。変な状況で突然終わることがとても多くありました。それが多くの人々を落胆させ、そのゲームから離れた原因でした。」

E.T.が不可解に穴に落ちて動けなくなるというプレイヤーからの不満の声があった。

10歳の男の子は“New York Times”のインタビューに対しこう答えた。

「面白くなかった。」
アタリはすぐにE.T.がオウチニカエレナイことに気が付いた。
そして1982年12月初旬“ガッカリ”セールス・オブ・ザ・イヤーとして発表されてしまい、親会社であるワーナーコミュニケーションズの価値は急落した。
その結果、他のゲームメイカーの急転落になる引き金も引いてしまった。
「クリスマスシーズンの後、小売業者からの返却が始まったよ。150万本は売れたんだけれど、僕らは400万本売る必要があった。足りなさすぎたね。」
1983年の第2四半期までに、アタリの親会社が310万ドルの損失を発表した。
消費者はホームコンピュータに転換し、ビデオゲーム市場は飽和した。
これが俗にいう“アタリショック”である。
崩壊を避けるべく、価格と多くの労働力がカットされた。
しかしそれも無駄となり、1984年7月ワーナーはアタリを240万ドルで売却した。
「この全ての経験から回復するのに時間が掛かったよ。僕は数年間ほど不動産業に加入しました。それが大嫌いだったけれど。最終的にテクノロジーに戻って、マネージャーと監督としてビデオゲームに戻ったけれど、その時には魅力を失っていたよ。」
その後、ウォーショウは執筆とテレビプロダクションのプロジェクトを経験。
「僕は自分がその産業と共に終わったことをわかっていました、でも他に代わりとなるものが構想できなかった。僕は鬱になりました。」
2008年、彼は心理セラピストに転職した。
「多分、僕が『E.T.』のゲームとともに創り上げた全てのトラウマと鬱を僕の一部が補いたかったんだろうね。でも現実ではそれは私がいつもしたかったことなんだ。」
今日ではウォーショウは“英語とオタクの両方が流暢な”シリコンバレーセラピストとして彼自身を入札している。
彼は自身の巨大な失敗話を患者に話しているのだろうか。
「時々するよ。」と彼は認めた。
2014年4月、ウォーショウは『E.T.』の失敗を掘り起こされる機会を得た。
一つの映画会社が30年もの間語り継がれている都市伝説についてドキュメンタリーを製作していた。
これは『アタリ:ゲームオーバー』として2014年にアメリカで公開され、日本でもDVD化している。それは1983年アタリが売れ残った『E.T.』のゲームをトラックに乗せて、ニューメキシコ州の沙漠に埋めたという“ビデオゲームの墓場”といわれる場所が存在するという都市伝説。埋まっていると噂のあるニューメキシコ州アラモゴルドは、1945年7月16日に世界最初の原爆実験が行われた場所でもあり、1954年12月10日には空軍大佐のジョン・スタップが、ロケットスレッドに乗り有人世界最速記録を達成した場所でもあり、さらに1961年1月31日世界初の宇宙に行ったチンパンジーのハムが埋葬されている(1983年1月19日没)場所でもあった。そのため何が起こってもおかしくない場所なのだ。「僕は信じたことは一度もなかったし、それは馬鹿げていると思ったよ。」とウォーショウ。ニューメキシコ州アラモゴルド市は公に発掘する許可を得た。そしてウォーショウはそこに招待された。

「僕らが到着した時、これを見るために世界中からやって来たファンの行列ができていました。そこに座って自分の過去を掘り起こされるのは奇妙なことでした。」

スピルバーグ監督作『レディ・プレイヤー・ワン』(2018)原作者アーネスト・クラインもデロリアンに乗って見物に来ていた。

その映画では名作映画やゲーム、アニメキャラクターがたくさん出てくるため、観客はそれを見つけることが楽しみの一つでもあった。

ストーリーの肝となるのが、ヴァーチャルゲーム世界を創り出した作者がゲーム内に隠した“イースターエッグ”を見つけること。

この“イースターエッグ”という存在を初めて生み出したのが、ATARI1979年に開発したATARI2600のソフト『Adventure』である。

そのゲーム内の決められた場所で特定のアクションをすると秘密の部屋の入ることができ、

そこには“作者ウォレン・ロビネット”と開発者の名前が書かれていた。

今となってはそんなのわざわざ見たくないかもしれないが、当時は画期的で宝探しのような感覚でわくわくしながら探していたのである。

『E.T.』もまた、イースターエッグとして開発者のウォーショウの名前が隠されていた。

これは『ストレンジャー・シングス』においても同じことが言える。

数々の映画からのオマージュを探すのはまさに“イースターエッグ”を探すワクワク感があるし、ダファー兄弟はそれを絶妙にあちこちに分散させている。

まさにドラマ全体があの時代の一つのゲームとして創られていると捉えることもできる。

そんな『E.T.』の発掘はアタリの製品が確かに投げられるように埋められていたことを証明していた。

『E.T.』以外のゲームソフトも大量に発掘され計1,300本にも及んだ。

しかし驚くことに実際に埋まっている数はなんと728,000本

アタリで当時働いていたジェームズ・ヘラーがそう答えている。

深部に埋められているため、掘り起こすのが難しいという理由で発掘できたのが1,300本と一部に過ぎなかったわけだ。

発掘されたそれらはオークションにかけられたり、博物館に寄贈されたりしている。

ウォーショウが打ちのめされた瞬間と、ボロボロの『E.T.』が地から引き上げられる瞬間が劇中で確認できる。

「僕は究極に感情的になりました。僕が30年前に5週間で作った小さなゲームが、いまだに興奮を生み出していたなんて。感謝でいっぱいです。」

『E.T.』は本当に“史上最悪のゲーム”だったのだろうか?
「人々がそれを“史上最悪のゲーム”として認定しても実は僕はその方が好きなんだ、だって僕は『Yars’ Revenge』を開発して、それはよく“史上最高のゲーム”の一つとして認定されているからね。だからその2つをもつ僕は歴史上最も幅のあるデザイナーだね!」
『Yars’ Revenge』ATARI 2600史上最も売れたゲームソフトである。
最高の成功と最低の失敗を経験した者だけにしか味わえない物語。
これもまた、80年代アメリカを象徴するポップカルチャーの大きな事件である。
たった一つのゲームが30年後に多くの人の関心を再び集める。
80年代の魅力はそこにある。
良くも悪くもあの頃は前衛的だった。
実際の発掘現場の動画を見ていただきたい。
この物語を知った後に見たら感情的にならざるを得ないだろう。
何より埋められていたゲームがいまだに機能してプレイできることに驚いた。ちなみに日本でも『E.T.』は発売していた。1983年5月24,800円アタリ2800(ヴァージョンアップ感を出すため2600から200増しされているが、機能性は全く同じ)として発売されるも、ついていないことにその2か月後任天堂ファミコンを発売。しかも14,800円という安価。ここから任天堂の躍進が始まったのは言うまでもない。誰が“アタリ2800”なんか買う?日本版『E.T.』はなんと100本ほどしか販売されていない。

受注がなかったからだという。

参照:映画『ATARI GAME OVER』, BBC
Excavating the Atari E.T. Video Game Burial Site-Game|Life-WIRED

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