都市伝説紀行
~ストレンジャー・シングスはノンフィクション~
『ストレンジャー・シングス』という海外ドラマの背景で描かれる実際にあった惨い実験の存在をここでは語ろう。
劇中でブレナー博士を中心にホーキンス研究所内で行っていた人体実験を、『MKウルトラ』と呼んでいたが、それは現実世界でかつてCIAが行なっていた国家プロジェクトである。
この事実が公表されたのは1975年。
第2次大戦の終焉はナチスを倒した連合国にとって喜ばしいものであったが、すぐさま冷戦へと突入した。
ホロコーストや戦争犯罪に関わったナチス親衛隊の幹部クラスの残党はよく南米に逃亡していたが、科学者の多くはアメリカと関わりをもった。
アメリカ政府とCIAは、何百人も生き残っている高度な技術をもつナチスの科学者から知識を搾取しようと考えた。
科学者たちはアメリカ社会に迎えられ、高い給料を貰い、高水準な生活環境を供給された。
いくつかの人々は、科学の貢献を祝して表彰盾や銅像までもが贈られた。
このプロジェクトは“ペーパークリップ作戦”と名付けられた。
これはCIAが彼らのプロフィール資料に目を通した時に、最も非道で悪意のあるナチスにクリップで目印を付けたことに由来する。
“ペーパークリップ作戦”の推進力は、高度なナチスの兵器のテクノロジーがソ連の手に渡るのを防ぐことだった。
およそ1,600人の科学者がこのプログラムに参加した。
彼らは生きた人体への化学実験や生物兵器実験のような、恐ろしい戦争犯罪に従事していたことで知られていたが、その少数は起訴されていた。
しかしCIAとアメリカ政府にそんなことは関係ない。
CIAが行うことになる実験の原型ともなる基盤を構築したのが以下の人物だ。
ナチスの科学者の1人、第3帝国全国保健指導者代理のクルト・ブローメは生物学武力行使プログラムに引き抜かれた。
“ガン研究”という名目のもと、ブローメは蚊やシラミのような昆虫に病気を拡散させる実験を実施していた。
彼はさらに腺ペストを兵器化しようとして創り出したような飛行機から神経ガスと殺虫剤を落とすテストも行っていた。
ブローメと同僚のDr.フリッツ・ホフマンは、アーミー・ケミカル・コーポレーションで勤務し、大いに貢献した。
ベトナム戦争で多く使われ土地と人を荒廃させた、除草剤や枯葉剤とも呼ばれる“エージェント・オレンジ”を開発した。
さらにブローメの指示のもと、マインドコントロールや人格修正を行うために必要な、LSDのような幻覚症状を引き起こす物質のテストを行った。
その実験は自白剤としてのLSDを開発するために開始され、死刑宣告されなかった人を使ってテストを行ったドイツのような国々でしばしば実施された。
この実験は“オペレーション・アーチチョーク”と名付けられ、後に悪名高き“MKウルトラ計画”と呼ばれる実験である。
1953年4月13日、CIA長官アレン・ダレスの命令のもと、シドニー・ゴッドリーブを中心に“MKウルトラ計画”が始まった。
1950年6月25日から1953年7月27日まで勃発した朝鮮戦争で、ソ連、中国、北朝鮮が米軍捕虜に行っていた洗脳技術に対抗すべく、洗脳薬物を開発することが目的であった。
実験はしばしば被験者の知識や同意なしに実施されていた。
冷戦時代は、ソ連のスパイ容疑のある人物に尋問するための完璧な自白剤を作ることを試みていた。
幻覚剤や麻痺、電気ショック療法などを含めたプログラムは150近くあった。
多くの実験はアメリカとカナダの大学や病院、刑務所内で実施された。
これらの実験の多くは1953年から1964年にかけて行われたが、どれくらいの人々が被験者になったかは定かでない。
化学と毒物のエキスパートであるシドニー・ゴッドリーブの指示のもと、CIAは実験にLSDを使い始めた。
彼はそれにより洗脳や心理的拷問をできると考えていた。
MKウルトラ計画の支援のもと、CIAはコロンビア大学やスタンフォード大学などその他の大学で薬物の効果を研究し始めた。
LSDの他に、MDMA(エクスタシー)、メスカリン、ヘロイン、バルビツール酸塩、メタンフェタミン、シロシビン(マジックマッシュルーム)なども使用した。
しかし一連のテストから、薬物を防諜活動に使用するには推測不可能だと判断した。
どのような人々が被験者になったのだろうか。
いくつかの被験者は、ボランティアとして学生がドラッグと引き換えに実験に参加した。
他には娼婦や受刑者、精神病患者など社会的弱者が何も詳しいことは知らされずに参加させられた。
ケンタッキー州にいる精神病患者の1人には、1日1回LSDを投与し、なんとそれを174日連続で行ったという。
このプロジェクトの早い段階でのボランティアの1人であったケン・キージーというスタンフォード大学に通う学生は、カルフォルニア州のメンローパーク退役軍人病院でLSDや他の幻覚剤を投与された。
そしてそこでの経験を基に書いた本が『カッコーの巣の上で』(1962)である。
ジャック・ニコルソン主演で1975年に映画化された名作だ。
知人に招かれ参加した彼は実験を終えた後、その体験をポジティブなものと捉え、以降彼はLSDを促進する活動を行なっている。
1973年に、“MKウルトラ”の大部分の記録が当時のCIA長官リチャード・ヘルムズの命令で抹消されてしまったため、完全に情報を得ることは現在に至るまで困難である。
しかし20,000ページにも及ぶ資料は管理ミスで残されていた。
1977年には『ニューヨーク・タイムズ』が“MKウルトラ計画”の全貌を明かし、それらを公に閲覧できるようになった。
アメリカ最高裁によると、
この計画は149のサブプロジェクトから構成され、最低でも44のアメリカのカレッジと大学、アメリカとカナダの14の病院と調剤会社を含む80の機関と185人の民間研究者の参加が判明した。
1995年3月15日には、過去に実際に被験者だった女性二人が諮問委員会で当時の様子を語った。
クラウディア・ミュレン(当時7歳)の証言の一部
1957年から1984年の間に私は政府のゲームの駒になりました。彼らの究極の目標は、マインドコントロールして完璧なスパイを創り出すことでした。化学物質、放射線、薬物、ヒプノシス、電気ショック、アイソレーションタンク、睡眠断絶、洗脳、言語、身体、感情、そして性的虐待などあらゆる方法が試されました。
自分の意に反し、人生の30年近くを搾取されました。そして私にされた唯一の説明は、“目的が手段を正当化する”というものでした。さらに、“共産主義と負かすための情熱と努力のもと、私は自国に仕えているのだ”とも言ってました。
彼らはその信条のもと、7歳の子供を被験者にして虐待し、私の苦しみを作り上げました。
L・ウィルソン・グリーン博士はCIAの一部であるエッジウッド化学・放射線研究所から5000万ドルを受け取っていると語っていました。
当時グリーン博士はチャールズ・ブラウン博士に対しこう語っていました。
“子供達を被験者に利用するのは実験対象として面白く、かつ安価だからだ”
博士たちも政府も低姿勢の被験者を求めていました。
そのため協力的な若い女性が求められました。
クリスティーナ・デニコラ(当時4歳)の証言
私は放射線、マインドコントロール、薬物投与実験の被験者でした。
私の実験を担当していたのはグリーン博士でした。
私の両親は1966年ごろ離婚していますが、
私の父ドナルド・リチャード・エブナーはグリーン博士と関わっていました。
私が被験者だったのは1966年から1976年の間です。
1970年、グリーン博士は私に放射能実験を行いました。
施術箇所は首、喉、そして胸でした。
1972年には胸のみになり、1975年には子宮が対象になりました。
実験の度にめまいと吐き気に襲われ、実際に嘔吐しました。
私の実験はアリゾナ州ツーソンで行われ、マインドコントロールと薬物投与が併用されました。
グリーン博士は1966年から1973年までの間、主にマインドコントロールの実験対象として私を扱っていました。
彼の目的は私の心を操作して、暗殺行為を行うスパイにさせるために訓練することでした。
最初の重要な記憶は1966年でのカンザスシティ大学におけるものです。
父のドン・エブナーは母の外出時に私を飛行機に乗せ、大学まで連れて行きました。
それから私がいたのは研究所のようなところで、他にも子供がいたように思います。
私は裸にされてテーブルの上に大の字になるように固定されました。
グリーン博士が持っていた電極を私の頭部を含んだ身体につけ、オーバーヘッドプロジェクターのようなものを使って、私の額につけられた赤い光が点滅している間、複数の異なるイメージを私の脳に焼き付けるのだと繰り返し言っていました。
実験が行われている間、グリーン博士は私の身体に電気ショックを与え、“より深く、深く、深く行くように”と言いました。
各画像が繰り返し映されていく中、私は心の中深くに入っていき、グリーン博士がするように言ったことは全てするようになりました。彼は実験を始める前に私に薬物を注射したので、私の意識は朦朧としていきました。
実験が終わると、彼は別の注射をしました。
次に覚えていることは、私はアリゾナ州ツーソンで祖父母と一緒にいたことです。
4歳の時でした。
お分かりの通り、実験でグリーン博士はトラウマ、薬物、催眠後の暗示を利用していました。
トラウマはより利用され、私の精神を完全にコントロールしようとしました。
彼は私を放射能線実験の被験者にしましたが、放射線が各部位にどのような影響を及ぼすかを知る目的と、マインドコントロールによってさらなるトラウマを植え付け恐怖に陥れる目的の2つがありました。
その他の実験はアリゾナ州ツーソンの砂漠地帯のような何もないところで行われました。
ピッキングの方法や、秘密を守る術、そして写真のように正確に記憶する方法を教えられました。何度も心の中で数えることで情報を守秘するテクニックなども教わりました。
さらに彼は、私に子供の見た目をした人形を刺し殺したいと思わせるような実験をしていました。
厳しくトラウマを植え付けられた後、私は槍で人形を突き刺しました。
でも2度目は拒否しました。
グリーン博士は苦痛をもたらす術をたくさん利用しました。
しかし私は成長するにつれ抵抗しました。
彼は私をよくオフィスのそばにある檻に縛り付け監禁しました。
1972年から1976年の間に、彼と彼の助手が不注意により檻に鍵をせず離れることが時々ありました。
このような身体的自由があった時、私は常に彼のオフィスに忍び込みました。
そしてファイルを探し、CIAや軍の関係者宛に書かれたメモを見つけました。
ファイルには放射線、またはマインドコントロール実験のプロジェクト、サブプロジェクト、コードナンバーや実験名などが書かれていました。
本日、私が提出したあなた方のお手元の資料に記載されているのがそれです。
私は2回捕まり、非道なグリーン博士に電気ショックにかけられ、薬物を投与され、机に叩きつけられ、腹部と背中に強い電気ショックを与えられ、関節を脱臼させられました。
彼は睡眠のテクニックで私を狂わせ、自殺したいと思わせました。
私のこのような抵抗と非協力的な姿勢から、彼らは私を暗殺スパイにすることを諦めました。
その結果、1974年から1976年の最後の2年間、グリーン博士は様々なマインドコントロールテクニックを利用して、暗殺者にするため私に吹き込んだメッセージを反転させ、私が自己破壊と自殺をするよう向かうように仕向けました。
彼は私が死ぬことを望んでいました。
そして私は成人してから日々生き延びるために戦い抜いてきました。
今も生きているのは、神の御加護があったからだと信じています。
この恐ろしい実験は私の人生に深い影響を及ぼし、私は多重人格障害を引き起こしました。
グリーン博士の実験の目的の一つは、私の精神を可能な限り多くのパーツに分裂させ、完全に私をコントロールすることでした。
彼は失敗しました。
しかし何年もの間、私は今日に至るまで、身体的、精神的、感情的な苦痛を継続的に受けています。
私は12年間、継続的にセラピーを受けてきました。
2年半前に現在のセラピストに出会いました。
彼女はマインドコントロール実験について知識があり、この出会いによって私は本当の意味で前に進むことができ治療し始めたのです。
最後に覚えておいてほしいのは、ここで話したことはあくまで1966年から1976年の10年間に起こっていたことに過ぎないのです。
単なる放射線実験ではなく、マインドコントロールと薬物の投与実験が行われていました。
70年代後半までこのような実験が行われていたことには驚きだ。
そして研究所には他の子供もいたというのが、ホーキンス研究所と重なる。
まるで映画のような出来事だと思うかもしれないが、真実はその逆で、映画はこの事実をSFやホラーに導入しただけである。
『時計じかけのオレンジ』(1971)、『THX-1138』(1971)、『未来世紀ブラジル』(1985)、『スキャナーズ』(1981)、『ファイヤースターター』(1984)、『リベリオン』(2002)、『ボーン・アイデンティティ』(2002)、『ハンナ』(2011)、『ゲットアウト』(2017)など人体実験やマインドコントロールを扱った作品は多くあり、皮肉なことに成功を収めている。