ウッディの心情変化に注目です。
トイ・ストーリー4
ティム・アレン
アンドリュー・スタントン
『モンスターズ・インク』(2001) 製作総指揮・脚本
『ウォーリー』(2008) 監督・原案・脚本
『カールじいさんの空飛ぶ家』(2009) 製作総指揮
『トイ・ストーリー3』(2010) 原案・シニアクリエイティブチーム
『モンスターズ・ユニバーシティ』(2013) 製作総指揮
『インサイド・ヘッド』(2015) 製作総指揮
『ファインディング・ドリー 』(2016) 監督・脚本
クリス・ステープルトン
日本語版
ダイアモンドユカイ
ジーン=クロード・コラーチ
ほのぼの感想&解説
結論から申しますと、4作目は必要なかったのではなかろうか。
ただそんな一言では言い表せない。
これからそう感じた理由を話していこう。
5年前の2014年に4作目の製作が決まり、
ボー・ビープとの再会がメインストーリーになることが発表された。
大好きなシリーズの4作目。
私の家には等身大ウッディにバズもいる。
公開は喜ばしいし、3作目に登場しなかったボー・ピープの行方を、
わざわざ4作目でそれを中心に描くくらいだから相当な自信がないと作れない。
相当面白いものが見れるぞと期待。
3作目は続編映画史上においても最高のエンディングを迎えた。
アンディと遊ぶ日々が終わり、ボニーへと意志が受け継がれたおもちゃ達。
何もかもが完璧なラストだった。
『トイ・ストーリー』にとって、遊び主が大人になるのはタブーだった。
タブーは言い過ぎかもしれないが、それを描くには相当な覚悟がいる。
おもちゃがワイワイする娯楽作品から、一気に現実的な大人向け作品に変わるから。
2作目でジェシーの過去が描かれたが、
アンディが大人になることはジェシーにとっても再び辛い思いをしなければならないのだ。
大学に連れて行かれるウッディと、押入れで暮らすことになるその他のおもちゃたち。
刻々と迫るアンディとの別れ。
世界中のファンを満足させる展開を構成しなければいけない。
大学生となり、おもちゃと遊ばなくなったアンディ。
それでも小さい頃に遊んだおもちゃは自分の意思では中々捨てられない。
親の急かしと迫る引越しが、アンディの選択を無理強いさせる。
遊ばなくなったって相棒であるウッディには、ただならぬ愛情がある。
もちろん他のおもちゃだって。
私自身も、LEGOを大量にもっていたし、おもちゃもゲームもたくさんあった。
それぞれに思い入れはあるが、引越すと同時に母親にいつのまにか処分されていた。
知り合いの子に譲ったらしい。
私の承諾は得ていない。
もちろん自分で買っていない。
しかしそれとは話が別だ。
あの引越しは急に言われて自分のものを整理する時間もなかった気がする。
気のせいかもしれないが、引越し準備をするのに色々と整理する時間が短すぎた。
小学校6年間で積み重なったおもちゃの量は相当なものだった。
ウルトラマンや仮面ライダー、ボードゲームにエアガン、そして映画のVHSだって。
学校から帰ったら1日1回はLEGOで遊んでいた。
自分で考えたストーリーを元に想像力を働かせ遊んでいた。
特に多かったのは、当時『ロード・オブ・ザ・リング・シリーズ』にドハマりしていたため、
大量のLEGO人形から何人か選抜し、旅の仲間を結成して冒険に出る話だ。
ゲームといえば64が世代だった。
ソフトもたくさんあったため、よく友達と遊んだ。
『マリオ64』、『マリオカート』、『大乱闘スマッシュブラザーズ』、『星のカービィ64』、『ゼルダの伝説 時のオカリナ』、『ゼルダの伝説 ムジュラの仮面』、『ヘクセン』、『ファミスタ』、『マリオパーティ2』、『ドンキーコング64』がお気に入り。
全て一気になくなった消失感は計り知れない。
ちなみに当時トイストーリーグッズはザーグしか持っていなかった。
ディズニーランドに行った時に、
バズ・ライトイヤーのアトラクションのグッズ売り場で一目惚れして父親に買ってもらった。
その後お気に入りのザーグで遊んでいたのだが、ある時片腕がもげた。
無理矢理くっつけようとしてもくっつかない。
父親にやってもらうもくっつかない。
それ以来押入れから彼が出ることはなかった。
映画を見て捨てられるおもちゃの辛さを学んでいたはずなのに、
なぜ私は捨ててしまったのだろうか。
それが子供なのだ。
これは『トイ・ストーリー4』においても重要な要素だ。
彼のもげた腕が右なのか左なのかも覚えていない。
最低なことをしてしまったと『トイ・ストーリー2』を見るたび今も心が痛む。
すまない、ザーグ。
また買ってあげる。
その日まで待ってておくれ。
ものすごく脱線しましたが、アンディの心情が痛いほどわかるということを言いたい。
『インサイド・ヘッド』のビンボンに繋がるものもある。
子供の描き方はピクサーが得意とするものだ。
人間は死ぬまで成長する。
記憶も上書きされていく。
しかし、おもちゃは違う。
永遠におもちゃのままだ。
遊ばれなくなったら捨てられるのみ。
3作を通して全てを描き切ったに違いない。
4作目が作られるなら、それはディズニーのお小遣い稼ぎだろう。
その時が来た。
4作目の予告を見た時だが、揺さぶられる要素もないし期待もしていなかった。
新しいおもちゃも魅力もない。
冒頭、ボニーのおもちゃ遊びから始まるが、ウッディはクローゼットに入れられたまま。
そう、ボニーは女の子。
ウッディのことを気に入ったのは最初だけ。
飽きたのだ。
こんなのあんまりだ。
ボニーが大切にしてくれるからと泣く泣くウッディを手放したアンディなのに。
しかし、これはかなり現実的だ。
アンディのお気に入りなのに私にくれたから私も愛情をもって大切にしなきゃとか、
そんなのボニーからしたら知ったこっちゃない。
自分の好きなもので遊ぶ。
だって子供だもの。
しかしやっぱりこれをされると、3作目の感動のラストが汚される。
良いものは良い思い出として残しておきたい。
『トイストーリー』はどうやら娯楽映画の枠を超えてしまったみたいだ。
そして物語は見たくない現実へと話が進んでいく。
今まで映画でもおもちゃとしても主役としてみんなをまとめていたウッディはもうそこにはいない。
現役を終え捨てられる寸前のおもちゃのように。
自信をなくすウッディ。
そこで出会ったのが新キャラのフォーキー。
幼稚園に入園したボニー。
初日で緊張しまくりの彼女を見守りたい優しいウッディはリュックに忍び込む。
紙コップに装飾して鉛筆立てを作ってくださいというお題が先生から出される。
色鉛筆や装飾品が入っている容器をクラスメイトの男の子にとられてしまう。
今にも泣きそうなボニー。
見兼ねたウッディがゴミ箱から適当に、先割れスプーンとモールと折れたアイスの棒、そして目ん玉を取り出しボニーの机に置く。
机から目を離した一瞬の隙に机の上に置かれたそれらを目にして、不思議に思いながらも閃く。
そしてフォーキー誕生。
新キャラ微妙とか言ったけれど、フォーキーは好きだぞ。
ウッディはバズたちに、フォーキーはボニーにとって大切なおもちゃである、彼女の成長のためにはフォーキーが必要不可欠と念を押す。
しかしこれは遊んでくれなくなりゴミ扱いとなったウッディが、仲間たちに自分の存在価値を改めて見せつける自己顕示欲と、弱まったリーダーシップを回復する目的、そして間接的にボニーを喜ばせて自分自身が役に立てたという自己満足の3点セットを手に入れたいという哀しいウッディがフォーキーを利用したのである。
もはやウッディはおもちゃの枠を超え、人間的感情の持ち主になり、人間に近づきすぎたのだ。
バズが人間らしくなるのなんて、遠い未来、はるか彼方の1光年後の銀河系だ。
今回なんて心の声ばかり聞いてやがる。
1作目に逆戻りじゃないか。
やはり3作目で初期化されスペイン語モードになったりで後遺症が残ったのかもしれない。
おもちゃに後遺症あたえるなんてピクサーもかなりの現実主義ですな。
ウッディは1950年代のおもちゃであるため、人間の良さ、醜さも愚かさも見てきたのだ。
ウッディ自身が具体的にいつ作られたのかはわからない。
『トイ・ストーリー2』で自身のルーツを知ったため比較的製造されたのは最近なのかもしれない。
しかし、他のウッディ経由で肌には歴史が刻まれているに違いない。
何を言っているのかわからなくなってきましたが、
つまり5作目が作られるのならばウッディは人間になっているってことだ!
『アンドリューNDR114』(1999)のロビン・ウィリアムズ演じるアンドロイドのように。
そしてその人間になったウッディがバズらお馴染みの連中たちの所持者になり、再会を果たす。
人間になりますます偏屈になったウッディに愛想を尽かし、バスら同盟軍がウッディに戦いを挑む。
『スモール・ソルジャーズ』(1998)の始まりだ。
話を戻し…
自分にとって重要なフォーキーから一切目を離さないウッディ。
フォーキーがいなくなれば、自分の存在も消える。
プチトリップに出かけることになったボニーの家族。
もちろん同行するおもちゃ御一行。
キャンピングカーから「僕はゴミなんだ。おもちゃじゃない!」と窓の隙間から逃げたフォーキー。
フォーキーがいなくなると死んじゃうウッディが、
みんなに遊園地で合流することを誓い迷わず後を追う。
ここでさらに残念なポイント。
お馴染みのキャラクターたちの出番が少なすぎる。
いつもの個性も出さない。
あくまで主点はウッディ1人。
バズは心の声をずっと聞いているだけ。天然で可愛いけれど。
ウッディの真の相棒はバズなのに、新米のフォーキーとばかりいやがって!
大好きなレックスも個性を出さない!
あと、どうせなら彼らを使ってもっと恐怖演出をしてほしかった。
真っ暗闇を利用して脅かしてほしかった。
暗闇の中、顔だけ光って浮かび上がってくるとか、カタカタ音が近づいて聴こえてくるとか、単純でいいから。
走って追いかけてくるシーンは好きだけど。
さらにいうと個人的に笑いの要素が少なかったかなぁ。
今までの作品はユーモアセンスに富んでいたから惜しい。
特に2作目が一番好き。
ボー・ビープとの一連の展開はこの際置いておこう。
しかしこれだけは言いたい。
ボーは陶器なのに関節動きまくりだし、腕が折れてもテープひと巻きでくっついちゃうし、何より顔が変わってるし…おそらく昨今の自立したたくましい女性の姿を彼女に投影したのだろう。
このなんか違う感は『ローグ・ワン』のレイア姫を思い出す。
もはやCGの技術の向上が映画にとって良いのか悪いのか分かりません。
ただ、ピクサーやディズニーのアニメで描かれる“自然風景”には毎回心底驚かされる。
今回だと冒頭のRCを救出する場面の大雨や流水などシズル感がたまらない。
近年だと『モアナと伝説の海』(2016)の“水”を使った描写が個人的にクセになっている。
小さい頃、プールの水面をボーっと見ているとゼリーのように見えたことはなかっただろうか。
あのプルンプルン感が『モアナと伝説の海』ではお見事すぎるくらいに表現されていました。
子供の頃なら、見たものは全てに好奇心が湧き面白く感じた。
あの頃面白く感じた映画が、大人になって見るとそうでもなかったりは多々ある。
パッと思いついたのが、『マスター・アンド・コマンダー』(2003)に『クジョー』(1983)とかね。
だからこそこのように自分の中で100%の絶賛ではなく、
否定も交えて言えるようになったってことは大人になった証ですかね。
ただ『トイ・ストーリー』に関しては未だに全作大絶賛ですし、
思い入れもとてつもないくらいにある。
だからこそ言いたいことが湧き出てくる。
文句ばっかり言っているが、良いところももちろんある。
ウッディがドナー提供をして、
ギャビー・ギャビーが憧れの女の子に捨てられるシーンには心が揺らいだ。
ウッディの優しさがここでまた出るんですよ。
泣けますね〜。
ウッディの内臓を頂いてまで叶えたい長年憧れていた女の子とのおままごと。
ようやく叶うはずだったのに。
彼女が味わった絶望感から目を背けられないウッディは、彼女を救い違う子供の元へ誘う。
いいシーンでした。
そして何と言っても4作目の結末。
3作目を超える結末とは何なのか。
制作陣が描きたかった話とは何なのか。
ボー・ビープとの再会で、
今までは考えられなかった子供の相手をしない生活の楽しさを感じるウッディ。
先述のギャビー・ギャビーが捨てられる瞬間を目にしたのが決定打で、
自分が子供に尽くす役目は終わったんだと感じたのだろう。
そしてウッディは10年以上を共に過ごした仲間たちと別れ、
ボー・ビープと共に自由な暮らしを選ぶのであった。
ウッディと帰る気満々で助けに来た他のおもちゃ達の悟った表情もグッとくる。
あの照明の当たり具合とか実写では描けないレトロな感じが出ていてまぁいいのなんの!
1995年に公開された1作目の『トイ・ストーリー』から24年。
あの時生まれたばかりの子も今や学園生活を終えた大人。
そんな長い月日を経て一つの歴史が終わった。
『トイ・ストーリー』
成長するのは人間だけではない、彼らおもちゃも成長していたんだ。
『スターウォーズ』のスカイウォーカーサーガが終わるように、
『トイ・ストーリー』のウッディサーガも幕を下ろした。
ありがとうございました。ピクサー。ディズニー。
カンシャエイエンニ。
明日自慢できるトリビア
①アンティークショップには今までのピクサー作品に関わるものが置かれている。
『インサイド・ヘッド』からビンボンのロケット。
『カールじいさんの空飛ぶ家』からエリーとカールの家。
私は全く発見できなかったがあったらしい。
あのお店にはお宝がたくさん眠っているみたいだ。
②ウッディとボーが入ったピンボールマシーンの中には、
オビ=ワン・ケノービとポンダバーバのアクションフィギュアがいる。
まとめ
アンディがまだウッディ達と遊んでいる年頃だ。