映画で巡るヒッピームーブメント

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映画で巡るヒッピームーブメント
ヒッピー文化の誕生から終焉まで軽くおさらいし、その時代を描いた映画をご紹介していきます。
まず、ヒッピーは何を目的としていたのか。
これまで保守的だったアメリカ社会の中で、市民らが集って新しい文化を築こうとした。
そして公民権運動、反戦運動、ドラッグ、ロック、フリーラブ、男女平等などを通して縛られるもののない新しい時代をつくろうとした。
それがヒッピーである。
1950年代
1950年から1953年まで朝鮮戦争が勃発。
1954年にはビキニ環礁でアメリカで第2次大戦後初の原爆実験が行われた。
1956年、ソ連の支配に対抗したハンガリーの民衆による「ハンガリー動乱」が失敗に終わる。
1957年10月4日にはソ連で世界初の人工衛星スプトーニクが打ち上げられた。
1959年にはキューバ革命が成立。
そして1950年代から1960年代にかけて公民権運動が起こった。
1955年12月1日の「モンゴメリー・バス・ボイコット」を機に、1957年の「リトルロック高校事件」、そして1960年代に続く。
このように将来が不透明になるたくさんの不安な要素が背景にあった。
文学面ではヒッピーカルチャーの原点ともいえる作品が生まれていった。
第2次大戦後、1955年から1964年頃にかけてアメリカ文学会で注目を集めた若い作家グループ、「ビート・ジェネレーション(Beat Generation)」が支持を集めた。

ビート・ジェネレーションはアメリカで初めてのカウンターカルチャー運動の一つとされており、彼らの作品の中には、ドラッグの使用と自由なセクシャリティを支持して卑猥な言葉も使われた。

アレン・ギンズバーグウィリアム・バロウズジャック・ケルアックの3人が最も有名なビート作家であり、彼らの作品は卑猥なアメリカ文学として検閲の対象となり議論の中心になった。

ビート・ジェネレーションという言葉自体、彼ら自身の自称であり、ケアルックが初めて使ったと言われている。

『キル・ユア・ダーリン』(2013)では、コロンビア大学生時代のギンズバーグを主人公に、大学で出会ったルシアン・カーに惹かれ、彼を通してケルアックとバロウズと交流するまでを描いている。

ギンズバーグは1956年に出版された『吠える』、バロウズは1959年『裸のランチ』、ケルアックは1957年『オン・ザ・ロード』がその代表作であった。

1992年公開の『裸のランチ』は原作は差し置いて、監督のデヴィッド・クローネンバーグ独自の悪趣味に満ちた作品になっている。

2012年に公開された『オン・ザ・ロード』は、これまで何度も映画化を試みられたが実現することはなく、待望の映画化だったがなんとも薄っぺらい内容になって失敗に終わった。
1960年代
1960年の「シット・イン」なので公民権運動の勢いが増し、そして1963年8月28日のキング牧師による「ワシントン大行進」で最高潮を迎える。

20万人以上が参加し、映画界からはシドニー・ポワチエ、マーロン・ブランド、チャールトン・ヘストンなどが参加。

ワシントン記念塔広場で行われたキング牧師のスピーチ“I Have a Dream”は世界中に強い印象を残した。

60年代になるとヒッピーが活動を開始し始める。

最初の主要なヒッピーグループの一つはメリー・プランクスターズとそのリーダーを務めたケン・キージーであった。

ケン・キージーは学生時代にアメリカ政府が行った、ドラッグ漬けにしてマインドコントロールすることを目的とした“MKウルトラ実験”に参加しており、そこでの経験を『カッコウの巣の上で』(1962)に記した。

1975年にジャック・ニコルソン主演で映画化され、第48回アカデミー賞で作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞を独占した名作である。

彼はその経験によりLSDの効果に魅了されアメリカ全土に広めようと活動した。

彼らはLSDが合法だった1965年までの間、それを大量に摂取しながらサイケデリックな色彩のバスFURTHER号」でカリフォルニアからニューヨークまでアメリカ横断ロードトリップを行い、LSDを広める「アシッド・テスト」という活動を始めた。
彼らはカリフォルニア州とオレゴン州に住む考え方が似た人々から成る大きなコミュニティであった。
この団体はアメリカンヒッピーを象徴する長髪と突飛なファッションを定義づけた。
一方アメリカ国内では不安が高まる出来事が起こった。
1963年11月22日ケネディ大統領暗殺された。

1964年8月2日8月4日トンキン湾事件が発生。

ベトナム沖のトンキン湾で、北ベトナム海軍が魚雷でアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」を攻撃した。

ジョンソン大統領はこの報復として、翌8月5日より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動を行った。

しかし実際には、8月4日の攻撃に関しては、ベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカ軍と政府が仕組んだ捏造した事件であった。

これは1971年6月にニューヨーク・タイムズの記者が、ペンタゴン・ペーパーズと呼ばれるアメリカ政府の機密文書を入手したことにより判明。

この出来事を題材に、2017年スピルバーグ『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』として映画化している。

8月2日に行われた最初の攻撃も、アメリカ海軍の駆逐艦を南ベトナム艦艇と間違えた北ベトナム海軍の魚雷艇によるものであることを北ベトナム側が認めている。

この出来事によりアメリカが本格的にベトナム戦争に介入するわけだが、

アメリカは戦争を利用する方法を知っているなとつくづく思わされる。

1966年1月21日~23日にかけてサンフランシスコにて「トリップス・フェスティバル」が開催された。
主催者はスチュアート・ブランドラモン・センダーケン・キージー&メリー・プランクスターズビル・グラハムであった。

LSDを摂取した1万人以上が集まり、グレイトフルデッドジャニス・ジョプリンが参加するビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーなどがパフォーマンスをして大いに盛り上がった。

1967年1月14日、アーティストのマイケル・ボーエンが、サンフランシスコのゴールデン・ゲート・パークにて「ヒューマン・ビーイン」というイベントを開催した。

3万人ほどのヒッピーが集まり、グレイトフルデッドジェファーソン・エアプレインなどが演奏を行った。

6月16日から18日まで開かれた「モントレー・ポップ・フェスティバル」では30組以上のミュージシャンが参加し、カウンターカルチャー音楽が披露され、ジミ・ヘンドリックスジャニス・ジョプリンが知名度と人気を高めた。
その後、スコット・マッケンジーが歌うジョン・フィリップス(ママス&パパス)の曲「花のサンフランシスコ」がアメリカとヨーロッパでヒットした。
「もしもサンフランシスコに行くなら、頭に花を飾ることを誓ってください」という歌詞は、

世界中からサンフランシスコに旅しにくる何千もの若い人々に刺激を与え、花を飾り、時には通りすがりの人々に渡したりした。

そして彼らは“フラワー・チルドレン”と呼ばれるようになった。

この夏、「サマー・オブ・ラブ」と呼ばれるアメリカ史においても重要な現象が起こる。
10万人以上の人がサンフランシスコのヘイト・アシュベリー地区に集まったのだ。
そしてサンフランシスコに留まらず、アメリカのその他の都市、カナダ、ヨーロッパにも影響は広がった。
集まった彼らは泥沼化するベトナム戦争に反対するため活動した。

これによってヒッピー文化が世界中に広まり認知された。

しかしまたしても悲しい出来事が。

1968年4月4日キング牧師暗殺される。

同年ニューヨークのパブリック・シアターで上演され、1968年にブロードウェイに進出したミュージカル『ヘアー』が注目を集める。
ベトナム戦争への出征を間近にした主人公がニューヨークを観光で訪れ、
そこで出会ったベトナム戦争に反対するヒッピーグループとの交流で心が揺らぐという物語。
本作は1979年に映画化されており、ヒッピー文化が良くわかる一本である。
一見浮かれているようだが、ベトナム行きが決まっているを若者と反戦運動をするヒッピーグループを主人公に、将来性の見えない内に秘めた葛藤と不安をミュージカルにしているため視聴者側に伝わりやすい。
裸で池に入ったり、公園でLSDをキメながら音楽フェスに参加したり、その他にもファッションやヘアスタイルも参考になり、「サマー・オブ・ラブ」の影響がみられる。
1969年7月14日には全米で『イージー・ライダー』が公開。

メキシコからロサンゼルスへのコカインの密輸で大金を得たワイアットとビリーは、ハーレーのタンク内にそれを隠し、カリフォルニアからルイジアナ州ニューオリンズ目指して旅に出る。

何といっても監督と主演を務めたデニス・ホッパーこそ現実世界においてもヒッピーを象徴する人物だ。

1969年8月9日シャロン・テート殺人事件を背景にした『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)でディカプリオ演じるリック・ダルトンが、マンソンファミリーに向かって「デニス・ホッパーめ!」と野次っていたのも記憶に新しい。

まさにヒッピー映画とアメリカン・ニューシネマを代表する作品。

同年にはヒッピームーブメント最大のイベントが起こった。

8月15日~18日にニューヨーク州ベセルで開催された『ウッドストック・フェスティバル』は、約40万人もの人を集め、カウンターカルチャーの絶頂期を迎えた。

サンタナ、グレイトフル・デッド、ジャニス・ジョプリン、ザ・フー、ジェファーソン・エアプレイン、ジミ・ヘンドリックスなどが参加した。

会場は平和に包まれ、“Love&Peace”が謳われた。

この模様を記録したドキュメンタリー映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』(1970)は、第43回アカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を受賞した。

1969年という年はヒッピー文化が最大に盛り上がった時期でもあるが、マンソン・ファミリーという悪の化身も生んでしまった複雑な時代だ。

そして12月6日、カリフォルニア州オルモント・スピードウェイで開催されたローリング・ストーンズ主催でサンタナやジェファーソン&エアプレインなども参加したコンサートで演奏中に殺人が起きてしまった。

ウッドストックを再現したかったストーンズは秋に構想を始め、開催日の前日に会場が決まるという究極の準備不足により警備もロクに手配できていなかった。

この野外コンサートには、具体的な数字は明らかになっていないが20万から50万人は来ていたという。

結局警備は地元のヘルズ・エンジェルスを500ドル分のビールを供給することで雇った。

7月のコンサートでもストーンズの警備を務めており、その際は無事に終わったことでの依頼である。

しかしストーンズが「アンダー・マイ・サム」を演奏する中、ミック・ジャガーの目の前で警備と観客が揉めあい、18歳の少年がヘルズ・エンジェルスのメンバーに殺害された。

彼が銃をステージに向けていたため警備が防いだというのが経緯。

メンバーは正当防衛が認められ釈放されている。

しかしながら死者が出るという、ウッドストックとは対になる最悪のフェスティバルとなってしまった。

そんな波乱の1969年の翌年1970年には『C.C.ライダー』が公開。

暴走族の団体と新入りとの対立を描いたヒッピー映画。

1971年には『懲罰大陸USA』が公開。

ベトナム戦争に対する反対運動を起こした人々を政府が一斉に捕らえ、刑務所に行くかカリフォルニアにある「ベアーマウンテン国立パニッシュメントパーク」に行くかを本人に選択させる。

罪の意識のない罪人たちはパニッシュメントパークに行くことを選ぶ。

パニッシュメントパークとは何もない土地に囚人を放ち、はるか遠くに立てているアメリカ国旗まで辿り着ければ釈放するというものであった。

しかしそれは名目上で、実際は軍による人間狩りであった。

モキュメンタリー手法なのにもかかわらず、あまりにも現実味のある映像でフィクションであることを忘れてしまう。

2つの事件を機に、そして1975年にアメリカの敗北で終結したベトナム戦争と共に現実を突きつけられたため、ヒッピームーブメントは沈下していき、“強いアメリカ”を目指す80年代へ突入していった。

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