特集!映画紀行
ビート・ジェネレーションはアメリカで初めてのカウンターカルチャー運動の一つとされており、彼らの作品の中には、ドラッグの使用と自由なセクシャリティを支持して卑猥な言葉も使われた。
ビート・ジェネレーションという言葉自体、彼ら自身の自称であり、ケアルックが初めて使ったと言われている。
ギンズバーグは1956年に出版された『吠える』、バロウズは1959年の『裸のランチ』、ケルアックは1957年の『オン・ザ・ロード』がその代表作であった。
1992年公開の『裸のランチ』は原作は差し置いて、監督のデヴィッド・クローネンバーグ独自の悪趣味に満ちた作品になっている。
20万人以上が参加し、映画界からはシドニー・ポワチエ、マーロン・ブランド、チャールトン・ヘストンなどが参加。
60年代になるとヒッピーが活動を開始し始める。
ケン・キージーは学生時代にアメリカ政府が行った、ドラッグ漬けにしてマインドコントロールすることを目的とした“MKウルトラ実験”に参加しており、そこでの経験を『カッコウの巣の上で』(1962)に記した。
彼はその経験によりLSDの効果に魅了されアメリカ全土に広めようと活動した。
1964年8月2日と8月4日にトンキン湾事件が発生。
ベトナム沖のトンキン湾で、北ベトナム海軍が魚雷でアメリカ海軍の駆逐艦「マドックス」を攻撃した。
ジョンソン大統領はこの報復として、翌8月5日より北ベトナム軍の魚雷艇基地に対する大規模な軍事行動を行った。
しかし実際には、8月4日の攻撃に関しては、ベトナム戦争への本格的介入を目論むアメリカ軍と政府が仕組んだ捏造した事件であった。
これは1971年6月にニューヨーク・タイムズの記者が、ペンタゴン・ペーパーズと呼ばれるアメリカ政府の機密文書を入手したことにより判明。
この出来事を題材に、2017年にスピルバーグが『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』として映画化している。
8月2日に行われた最初の攻撃も、アメリカ海軍の駆逐艦を南ベトナム艦艇と間違えた北ベトナム海軍の魚雷艇によるものであることを北ベトナム側が認めている。
この出来事によりアメリカが本格的にベトナム戦争に介入するわけだが、
アメリカは戦争を利用する方法を知っているなとつくづく思わされる。
LSDを摂取した1万人以上が集まり、グレイトフルデッド、ジャニス・ジョプリンが参加するビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニーなどがパフォーマンスをして大いに盛り上がった。
3万人ほどのヒッピーが集まり、グレイトフルデッドやジェファーソン・エアプレインなどが演奏を行った。
世界中からサンフランシスコに旅しにくる何千もの若い人々に刺激を与え、花を飾り、時には通りすがりの人々に渡したりした。
そして彼らは“フラワー・チルドレン”と呼ばれるようになった。
これによってヒッピー文化が世界中に広まり認知された。
しかしまたしても悲しい出来事が。
1968年4月4日、キング牧師が暗殺される。
そこで出会ったベトナム戦争に反対するヒッピーグループとの交流で心が揺らぐという物語。
一見浮かれているようだが、ベトナム行きが決まっているを若者と反戦運動をするヒッピーグループを主人公に、将来性の見えない内に秘めた葛藤と不安をミュージカルにしているため視聴者側に伝わりやすい。
裸で池に入ったり、公園でLSDをキメながら音楽フェスに参加したり、その他にもファッションやヘアスタイルも参考になり、「サマー・オブ・ラブ」の影響がみられる。
メキシコからロサンゼルスへのコカインの密輸で大金を得たワイアットとビリーは、ハーレーのタンク内にそれを隠し、カリフォルニアからルイジアナ州ニューオリンズ目指して旅に出る。
何といっても監督と主演を務めたデニス・ホッパーこそ現実世界においてもヒッピーを象徴する人物だ。
1969年8月9日のシャロン・テート殺人事件を背景にした『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』(2019)でディカプリオ演じるリック・ダルトンが、マンソンファミリーに向かって「デニス・ホッパーめ!」と野次っていたのも記憶に新しい。
まさにヒッピー映画とアメリカン・ニューシネマを代表する作品。
同年にはヒッピームーブメント最大のイベントが起こった。
8月15日~18日にニューヨーク州ベセルで開催された『ウッドストック・フェスティバル』は、約40万人もの人を集め、カウンターカルチャーの絶頂期を迎えた。
会場は平和に包まれ、“Love&Peace”が謳われた。
1969年という年はヒッピー文化が最大に盛り上がった時期でもあるが、マンソン・ファミリーという悪の化身も生んでしまった複雑な時代だ。
そして12月6日、カリフォルニア州オルモント・スピードウェイで開催されたローリング・ストーンズ主催でサンタナやジェファーソン&エアプレインなども参加したコンサートで演奏中に殺人が起きてしまった。
ウッドストックを再現したかったストーンズは秋に構想を始め、開催日の前日に会場が決まるという究極の準備不足により警備もロクに手配できていなかった。
この野外コンサートには、具体的な数字は明らかになっていないが20万から50万人は来ていたという。
結局警備は地元のヘルズ・エンジェルスを500ドル分のビールを供給することで雇った。
7月のコンサートでもストーンズの警備を務めており、その際は無事に終わったことでの依頼である。
しかしストーンズが「アンダー・マイ・サム」を演奏する中、ミック・ジャガーの目の前で警備と観客が揉めあい、18歳の少年がヘルズ・エンジェルスのメンバーに殺害された。
彼が銃をステージに向けていたため警備が防いだというのが経緯。
メンバーは正当防衛が認められ釈放されている。
しかしながら死者が出るという、ウッドストックとは対になる最悪のフェスティバルとなってしまった。
そんな波乱の1969年の翌年1970年には『C.C.ライダー』が公開。
暴走族の団体と新入りとの対立を描いたヒッピー映画。
1971年には『懲罰大陸USA』が公開。
ベトナム戦争に対する反対運動を起こした人々を政府が一斉に捕らえ、刑務所に行くかカリフォルニアにある「ベアーマウンテン国立パニッシュメントパーク」に行くかを本人に選択させる。
罪の意識のない罪人たちはパニッシュメントパークに行くことを選ぶ。
パニッシュメントパークとは何もない土地に囚人を放ち、はるか遠くに立てているアメリカ国旗まで辿り着ければ釈放するというものであった。
しかしそれは名目上で、実際は軍による人間狩りであった。
モキュメンタリー手法なのにもかかわらず、あまりにも現実味のある映像でフィクションであることを忘れてしまう。