『別冊少年マガジン』にて2009年10月号から2014年6月号まで連載された押見修造による漫画。
私はこの漫画を購入し、貪るように自分の中に潜む狂気を感じながら1週間ほどで読み終えた。
早くも再び読み返している。
アニメも一気に観た。
実写映像を元にアニメーションを作成する史上初の全編ロトスコープ作品として制作されているため、漫画とは違うヌメッとしたタッチで描かれ、気持ち悪さが前面に出ていて変態な世界観がぐっちょり溢れ出ていた。ただ、第1部で打ち切り?になったようで終わり方が残念。
実写映画はあえてまだ観ていない。
この物語は私そのものである。
主人公は中学2年生の春日高男。
読書が趣味の内気で中性的な少年。特にボードレールの詩集『悪の華』が彼のお気に入り。
しかし実際には内容はさっぱり分かっておらず、それを読んでいる自分に酔っているだけである。
このキャラクター像には作者の押見修造が自身を投影させている。
春日くんは同じクラスの佐伯奈々子に片想いしているが、人間関係の構築が得意ではなく、現実社会に壁を作って生きている。
そんなある日、教室に本を忘れたため取りに行った時のこと。
誰もいない教室で“悪の香り”が彼を誘惑する。
佐伯さんの体操着が床に落ちている。
それを拾い上げて匂いを嗅ぐ。
その時だった。
物音が聞こえたため、とっさに体操着を自分の手元にしまい持って帰ってしまう。
そしてそれを見ていた人物が一人いた。
それは一番見られてはならない人物でもあった。
仲村佐和。
クラス一の問題児。
何を考えているのか分からず、不気味な雰囲気を醸し出し近づきがたくクラスでは浮いた存在。
そして先生には暴言を吐く。
「クソムシ」が口癖。
この仲村の性格は作者の妻がモチーフで、「クソムシ」というのは妻からのメールにあった言葉である。
仲村さんは、春日くんが体操着を盗んだことをバラさない代わりにとある契約を求める。
彼を服従させ、彼自身の性欲や背徳的な欲求を全てさらけ出して“変態”であることを自覚させることで、建前と倦怠に満ちた日常を壊そうとすることが仲村さんの企み。
といったように入りはエロと変態だが、それはあくまで導入に過ぎず、次第に「人間の感情変化はどのように動いていくのか」、「自分と向き合って生きていくとはどういうことなのか」といったことを考えさせられる深い哲学へと変わっていく。
ではここから私の実体験と絡めて語っていこう。
そしてこれが僕と一人の女性との間の物語の最終章。
その人がこの漫画を勧めてくれた。
「○○くん、絶対この漫画ハマるよ。」
僕らは出生から性癖まで全てを語り合い、お互いを“変態”だと認識した。
日常での感情変化の仕方、学生生活で行っていた奇怪な行動の数々、これでもかと類似点が多かった。
偶然にも幼少期に同じ県に住んでいたこともあった。
彼女の挙動不審な動きを見ていると、過去の自分を見ているようでもあった。
この子は人に中々心を開かない人に違いない。
僕らは1週間付き合った、そしてすぐに別れた。
以前から出会ってはいたのに、話したこともなく全く意識したこともなかった。
次第に意識し始めていた。気になり始めていた。この子は何者なのか。
僕は毎回会う度に印象に残るようなイタズラやちょっかいを出し始めた。
それに対してしっかり応えてくれるではないか、意外と明るい子なのか?
勝手にサバサバした人だと思い込んでいた。
ある日2人きりになる状況ができたため、何気なく話しかけた。
ここからすべてが始まった。
彼女が同じ匂いがすることに僕は勘付いたのか、猛アプローチをしていた。
そして彼氏と別れてもらい、付き合うことになった。
しっかりとした初デートの日。
あの日、僕らは時空を超えて“向こう側”へ辿り着いた。
向こう側とは春日くんと仲村さんが目指した場所である。
泥にまみれた町から逃げ出すべく目指した最終地点。
彼らとは逆に僕らはそこから始まったのだ。特に求めていた状況ではない。
あの日は全てが奇妙だった。
天気は雨の予報だったのに、待ち合わせ時間には晴れ渡っていた。
そして彼女が提案した、かつて1度行ったことのある場所を目指して歩いた。
そこに到着してベンチに座ると、猫が3匹現れた。
黒、白、茶。仲睦まじく集まっている。野良にしてはあまりにも綺麗すぎる毛並み。
そして向こうの側にある河川敷を目指した。
橋を渡っている時、カラスが30羽ほど頭上に止まっていた。
その時だった。海に停泊する船から『タイタニック』の主題歌で、セリーヌ・ディオンが歌う「My Heart Will Go On」が流れてきた。
こんなタイミング嘘だろ。
この直前に『タイタニック』の話をしていたからである。
あの子はもともと年上でリッチな彼氏と数年付き合っていた。
結婚も迫られていたが、その人と自分の将来を考えた時に何も見えなかったため保留していた。
そんな時に目をキラキラさせ夢に満ち溢れた僕が現れた。
春日くんは読書に夢中だが、僕の場合、映画である。映画が僕の全てだ。
映画のことになると、目のキラキラが止まらず語ってしまう。正直、普段喋らない癖にそんなに喋るもんだから自分が気持ち悪い。
そんな新鮮な僕に対して惹かれた彼女は僕のもとにやってきた。
つまり今の僕らの物語はまるで『タイタニック』のよう。
そんな話をしたタイミングでこの曲である。耳を疑った。誰かが仕込んだのではないか。
ロマンチックでもありつつ照れくさい音楽を聴きながら橋を渡りきると、まさかまさかの河川敷に猫が30匹ほど優雅に寝そべっていた。
何だこの光景は…さきほどの黒、白、茶と同じ種の猫がそれぞれたくさんいた。
後に僕は彼女との全てを消し去ることになるが、いまだにこのとき彼女がここで撮った動画だけは残してある。向こう側へ行った事実が妄想ではないことを証拠づけるために。
僕らはその猫よりも向こうの側の河川敷に座った。
こここそが“向こう側”なのだ。
僕は自分の夢について語った。
彼女も将来を語った。
そして再び耳を疑った。
違う曲を挟み、再び「My Heart Will Go On」が流れたのだ。
そして目の前の川では魚がときたま跳ねている。
沈みゆく夕日。
それが反射して煌めく水面。
金色に照らされながら、
僕らは“悪の口づけ”で結ばれた。
僕は佐伯さんとこれからを歩むはずだった。
数日後、彼女は仲村さんへと変化した。
僕らは互いに自分を隠して付き合っていた。
何も知らずに上辺だけの恋愛関係を築いてしまった。
今思うと、彼女はよく黒い格好をしていた。
そしてたまにメガネをかけていた。
さらに髪型はボブだ。
仲村さんじゃないか。きっと意識していたに違いない。それを聞けない今が残念。
“向こう側”へ行ってから数日後、こんなメールが送られてきた。
「○○くんが私を理解するのはかなり時間がかかると思うし、難しいんじゃないかな。私は新しい何かを求めていて、そんな時にあなたが現れた。だからその新鮮味に惹かれていただけだと思う。私はあなたに合わせてた。自分を隠してまで付き合いたいとは思わない。」
僕らは氷山にぶつかった。
やっぱりタイタニックは沈むんじゃねーか!
彼女に対する恐怖の匂いを感じ取られたのが原因である。
彼女の存在が怖かった。
この時は彼女も本当の僕のことを知らなかった。だからこそ辛く悔しかった。学生時代から自分を隠して、考え抜いて作りだした道化を前面に、そうして自分を変えて生きてきたおかげで自信がついたのに、それを否定された気分だった。今までの自分は何だったのか。
その後、彼女が大好きで、僕に勧めてきた『パーフェクト・ブルー』(1997)という映画を鑑賞し、それで悟った。
僕は彼女を知ろうともしてなかった。自分からも逃げていた。
自分の都合のいいように“理想の女”を作り出していた。
そして本当の自分を曝け出し、長文を送った。
この展開も『惡の華』で描かれていて驚いた。
“向こう側”に行けず、仲村さんに見捨てられた春日くんが、以前依頼された「体操着を盗んで何を感じたか」、「それを着て佐伯さんとデートした時に何を感じたか」など、自分が変態であることを曝け出した作文を書き上げて渡そうとした。
まさに僕だ。
ちなみにもしも春日くんの立場なら、好きな人の体操服を着る行為は自分にとって女装への憧れを助長させる行為に感じる。
女装している自分にビッグバン・エクスタシーを巻き起こしそうな予感がするという、まさに変態としかいいようがない。
違う自分を演じている自分に興奮するというもはや一種のプレイなんじゃないか。
客観的に見ると、自分が興味深い。変過ぎるだろコイツ。イカれてやがる。
こんな奴、社会に適応できないだろ…と思いつつ意外とそれなりにできているところが自分の面白いところでもある。適応する気はないですが。
ここから我々は両者共に予想だにしない不思議な関係が築かれる。
彼女からその関係を保ついくつかのルールが提示された。
この子は相当に苦しみもがいた過去がある。そして今も苦しんでいる。自分が支えなければいけないという責任を感じた。
「そんなに軽く変態って言ったらあかんで」と僕を知る前にはそう思っていたらしいが、彼女のその考えは変わった。
“付き合う”という契約じみた事柄はなくして、僕らは改めて結ばれた。
他者には理解されない関係であろう。
本当の自分を隠した危険な佐伯さんではなく、変態な仲村さんと。
虐げられたり侮辱されたりすることに興奮する自分もいるのでたまらなかった。
そんなM男にはたまらない漫画が『惡の華』なのだ。
しかし普段は皮肉や冷たいことを言って相手を蔑みたいのが基本的な自分。
学生時代には「〇〇くんのボソッと言う一言面白いけど図星ついて結構傷つくんだよね(笑)」とよく言われたことがある。
もちろん傷つける気はなく、本当に思ってることなのと、面白いならいいじゃないかと思って言っている。
人によっては最低な人間と受け取られるかもしれない。
僕は人と話すのが好きではなかったから、壁を作って人を突き放すことで自分の望む孤独を手に入れた。
その代わりに人をよく見る癖と、その人が何を感じているかを察する洞察力が身についた。
これは自分の夢に役立てる能力である。
しかし恋に落ちると孤独と葛藤する。自分を変えなければ愛する者は手に入らないのだから。
好きな子には翻弄されていたい自分がいる。
でもそうされ続けるのは疲れてしまう。
だから関係は続かない。
自分を中心にしてしか考えられないのかもしれない。クソムシだ。
絶対に結婚はできない人間だと感じる。
我が道を行く者にはそれ相当の障害が前にそびえたつ。
彼女は僕との関係を考えるがあまり崩壊した。
「考えすぎて爆発しそう」
僕は彼女を救った。
そして救えなかった。
あの時の自分の言動が今も自分を苦しめる。
こんな罪悪感を覚えるならば彼女を近づけさせない方が良かった。
両者にとって良くない。
彼女と接していくと自分が自分でなくなっていくような気もした。
春日くんが読書で自分を取り戻すかのように、僕も映画鑑賞で自分を取り戻そうとした。
このままでは自分の人生のペースが狂わされる。
セックスはあくまでも愛し合う手段の一つで、身体は結合するが心を繋ぐ方法ではない。
世の中みんなキレイごとばかりだ。
自分でも理由が理解できていないのに、こうしなければならないからこうしなさい!と押し付けてくる人間ども。
高校の時、僕はクラスメイトがずっと好きだった女の子を好きになってしまい、付き合うことになった。なぜか応援していたら好きになってしまった。
男子はみな彼がその子を好きなことを知っていた。
佐伯さんは春日くんとの関係をクラスメイト全員に打ち明けたが、彼女は一部の人達に僕との関係を許可なく打ち明けてしまった。その中には男子もいた。
翌日から嫌な笑みを浮かべながら見られたことを覚えている。
あからさまに今までと態度を変えて名字で呼び捨てで呼んできやがる。
といっても自分から付き合っといてそんなに好きではないことに気づき、関係は自然消滅した。
人は人から聞いた話で当事者を判断してくる生き物なんだなと実感した。
みんな腹の中には大きく小さかれ変態が住みついている。
僕が“変態”に目覚めたのも高校生の時。
自我が芽生え、自分と葛藤していた時期。
今まで犯罪は犯したことはないが、一度だけ、たった一度だけ高校生の時に罪深き変態行為をしてしまった。
春日くんが体操着を盗んだように、定番の好きな子のリコーダーを咥えるのと同様、いやそれよりも愚かなことを、好きな子のあるモノを…。
教室で行った行為だが誰にも見られなかったことは言えよう。
今思えば、見られたかったという変態的考えもある。
大学の時にも違う変態行為を繰り返したことがある。
誰しも人に言えない変態が眠っているはずだ。
清楚な人ほど。
この漫画を読んでいると、異性の普段隠している変態を剥き出しにしてみたくなる。
高2の時だったか、学校祭が終わり、片づけで教室から冷蔵庫を運ぶ作業を3人がかりで行った。
僕の隣には特に話したことのない地味めな女子がいた。
腕を回し冷蔵庫を持ち上げようとした時だった。
その子が思い切り胸を僕の腕に押し付けてきた。
これが初めてのおっぱい感覚。
「やっやわらかい…」
あててきた方は確信犯である。
自分を弄ぶかのようにしばらく押し付けてきた。
その子の風貌は、ショートカット、メガネ、地味。
仲村さんめ…。そこからその子と何か展開が生まれたわけではなく、話すこともなかった。
こういう見た目の人は変態なんだろう。
今思えば学校でおっぱい感覚を味わえたなんて幸せである。
そういえば夏服は最高だったなぁ。
授業中に前の席に座る女子の透けるブラジャーを眺めるのが何よりも授業だった。
女性と付き合うことになると、必ず言われる一言がある。
「性欲ないと思ってた。」
そう思われていることを承知で、そこをうまく利用して生きてきた。
自分がどれだけ変態な考えをしていても、その行為を実際にしていても、誰にも想像はできない。
そこを楽しんで生きてこそ変態なのだ。もちろん犯罪行為は論外。
理性と変態を両立させて自我を満たす。
だからこの記事も自分の妄想として捉えられても問題ない。
自分は何者なんだ。
なぜこうなった。
家族と距離を置き、誰にも本性を曝け出すことができないからなのか。
変態には段階を踏む必要がある。
急になれるわけじゃない。
私の持論に過ぎませんが。
第1段階:何か他の人と違うと感じる。
第2段階:理想と欲望の間を葛藤する。
第3段階:自分は変態ではないと思い込ませる。
第4段階:ついに欲望に負け、行動に移す。
第5段階:自分が変態だと認めて生きる。
あの子は僕の全てを剥き出しにさせ、それを理解してくれた。
そんな人に出会ったことはなかったため戸惑った。
そして彼女の魅力に惹かれていった。
この人に出逢うための今までだったんだ。
といいつつ僕は感情の操作を誤り、僕らの関係は崩壊した。
「もう勘弁してください」
僕と関係を持つ女性はみな不幸になっていく。
『惡の華』は太宰治の『人間失格』を少年期と青年期に置き換えたような漫画である。
“恥の多い生涯を送って来ました”
僕の場合、自分の内を曝け出す時は今の自分に満足していることを意味する。
だから恥ずかし気もなくこういったことを全て書き起こせている。
僕はあの子のおかげで自分のクズ加減に気付いた。
自分の被害者面にはもうウンザリだ。
「今後どのような形であれ、この先あなたと関わることはできません。これが最後のメールになります、さようなら。」
彼女は僕を置いて去った。
でもそれに対して安堵の笑みを浮かべた自分もいる。
自分とは違う道で幸せを手に入れてほしい。絶対に不幸にはならないでほしい。
彼女は報われるべき人間である。
僕とあの子は共鳴することはできても、共に支え合って生きていくことはできない。
仲村さんに対する春日くんのように、僕は彼女のことを掴めたと思っていたが、実際には心を掴めていなかった。だからこそあの時、突き放された。
僕も高校時代に、「何を考えているのか分からない謎の存在」、「感情が読めず掴むことのできないミステリアスなところがある」、「こんなにフリーダムな人だとは思わなかった」など似たようなことを言われた。
彼女は自分の分身である。人生に試練を与えられたのだろうか。
一見その戦いに敗れたようで、そこから自分と向き合うことができた。
さらに自分に磨きをかけることができた。
感謝しかない。
実際、メールをしていても、自分とやりとりしているかのような奇妙な感じに陥るほどに文体が似ている。
そして実際会った時との感情の差も同じであった。
別人のように変わる様が見ていて興味深かった。僕と似ていながらも違いのある変人だった。
君が僕の鏡になってくれたおかげで夢を叶えられる気がする。ありがとう。
あの仲村さんが泣きながら唯一自分の心情を曝け出した瞬間がある。
「ずっと叫び声をあげてた、私の下の方の変態が、私にはわからないコトバで叫び声をあげてた。春日くん。春日くんにはねかえって、私、その叫び声の言ってることがわかった。聞こえた。出たい。出せ。出して。どこ?出口はどこ?向こう側はどこ?でもわかった。向こう側なんて無い。こっち側も無い、何も無い、クソムシも変態も無い、もう……何も無い。どこへ行っても、私は消えてくれないから。」
僕自身も弱い部分を見せたくないがために強気で彼女にあたってしまった。
それは全て自分に跳ね返ってきた。
自分がそうなのに相手にはそうでないことを望む。
いつかは分からないが、僕らもきっとまた会える予感がする。
その時は“あの向こう側”で殴りあって、脱がせ合って、笑い合いたい。
人にはそれぞれの過去があり、今があり、生き方がある。
それを否定することほど愚かなことはない。
正直、誰かの全てを受け入れるほどの覚悟は今の僕にはない。
まだまだ自分のためにやらなければならないことが多すぎる。
作品の舞台は中学から高校に移る。
春日くんは県外へ引っ越して高2になった。
仲村さんとは町のクソムシどもの駆除を試みた、あの日以来会っていない。
いまどこで何をしているのか知る由もない。
彼の所業の全てが家族にバレ、社会からも排除された春日くんは大人しく高校生活を送っていた。
本も処分して、読書は一切することなく自分を偽って生きることにした。
そんな時に出会ったのが常磐さんという校内のマドンナ。
彼女の風貌と男気のある振る舞いはどことなく仲村さんを彷彿とさせる。
常磐さんは読書が趣味であることを隠して、同級生が描くイメージ通りに生きることを選んでいる。
彼女も孤独を抱えて生きていた。
しかし春日くんと意気投合したことにより本当の自分を曝け出す。
常磐さんによって、消し去ろうとしていた中学時代の本来の自分を取り戻していく。
そんな彼女と生きていくことを決めた彼は、どうしても過去との決別をしなければならなかった。
偶然にも佐伯さんと再会した彼は彼女にこう言われる。
「あの女の子に仲村さんを重ねてるんでしょ?」
春日くんは常磐さんにすべてを打ち明けて、今の仲村さんに会いに行くことを決意する。
それが彼の過去との決別を意味する。
過去をうやむやにすれば今の自分を苦しめる。そして何よりも今現在、自分のことを想ってくれる大切な人を傷つけてしまう。
仲村さんの最後の笑顔が忘れられない。
春日くんは仲村さんを救ったんだ。
彼女は過去を乗り越えた。
そして生きる道を選んだ。
「仲村さんが消えないでいてくれて嬉しい」
それが春日くんにとっての救いになるのだ。
自分にとって『惡の華』は、我が青春のバイブルでもあり、自分がいかに変態になったかを振り返るきっかけであり、そして佐伯さんであり、仲村さんであり、常磐さんのような現実世界でもがき苦しむ一人の女性が、“今を生きるための標”を示してくれた大切な作品である。
最終巻を読み終え、「こんな人と出会えるんだからこの世も悪くない。俺も今まで生きてきてよかったんだ。世界は灰色じゃない。虹色に輝いている。あの子が僕の心に色をつけてくれた。」と思えた。
今年は精神を大きく成長させることができた年である。
今まで逃げていたことから向き合えた。
“自分の観方を変えれば世界は変わる”、今まではただの言葉にしか感じなかったよく聞く一言。
その通りであることを実感させてくれる大きな経験だった。
お前もな。
いつかこれを読めよ、クソムシ。
もう僕は自分がかつて壁に咲いていた花であったことも隠さないし、今の自分を認められるようにもなった。
そして自分の中の惡の華を調教する方法も覚えつつある。
全ては君のおかげ。
過去は消せない。
めぐりめぐって僕の前に立ちふさがる。
それを乗り越える方法を君は教えてくれた。
好きとか嫌いとかの次元じゃない。
抱きしめたいとか殺されたいとかでもない。
全ては君のおかげだから。
時をかけてキミにもう一度会いたい。
いつか僕の生き様をみてもらいたい。
僕はこの町では死なない。
僕にとっての仲村さん、キミに感謝しています。
このタイミングで読むことになったのも、自分で引き寄せた運命なのだろう。
成長したら、また向こう側で会おう、この変態やろう。
そしていつか再び一緒に無限を感じよう。