志乃ちゃんは自分の名前が言えない
蒔田彩珠
萩原利久
一言粗筋
ほのぼの感想あるいは解説
原作は2011年12月21日から2012年10月17日までウェブマガジン『ぽこぽこ』にて連載された押尾修造の漫画。
作者自身が中学2年の時に発症した吃音症の経験を基に描いている。
私は映画を観て、この漫画をすぐに買った。
主人公は高校1年生の女子、大島志乃。
入学式当日、クラスでの自己紹介の際、自分の番が回ってきた。
「おっおっおっおっおっ…」
自分の名前が言えない。
彼女は母音から始まる言葉が発しにくくなるのだ。
おどおどする彼女に先生と生徒はハテナ顔。
「しの…おおしまです」
そのため名前から発した。それが精いっぱい。
案の定、「外国人かよ」とツッコまれて笑われる。
ただ一人笑わなかった人物がいた。
彼女に話しかけるため、一人で会話をしてイメトレをする志乃。
これも私がよくやるやつだ。
話しかけたい人に頭の中でシチュエーションを考えて、会話劇を繰り広げる。
好きな子がこう言ったら、こう返す。
連絡先を聞いて、デートに誘うシュミレーションを何度も行う。
実際にはそんなうまくはいかない。
今日こそは今日こそは話しかけるんだ!って思っても勇気が出ない。
ついに連絡先を聞けて登録している最中に、名前を知っているくせに、あえて名前を知らないふりをして、聞いてみたり謎のおどけアドリブもかます。
志乃の女の子もまた、自分にコンプレックスがあった。
それは音痴なこと。
ギターを弾き語るのが趣味だが、歌えないためひっそりと練習している。
強気で偏屈な彼女は志乃に対して真顔で聞く。
「その話せないの何なの?」
志乃はこう答える。
「わかんない。」
ここがこの作品で重要なポイント。
吃音症になった原因が分からないがゆえ、共感の幅が広がる。
母親は心配している描写はあるものの、彼女の過去は描かれることはない。
アカデミー作品賞を受賞した『英国王のスピーチ』(2010)も素晴らしい作品ですが、主人公ジョージ6世は幼少期の虐待が原因で吃音を発していることが描かれていた。
やはり一般市民かつ理由がわからない方が自分に置き換えやすい。
志乃の理由なき吃音に対してその子はある行動をする。
「喋れないなら書けば」
メモとペンを渡す。
この時点で涙が出る私。
わたくしとしたことか、劇中何度も泣いてしまった。
正直負けた気がした。自分のことが描かれている映画を観て泣くことほどシンドイことはない。
弱い部分を乗り越えて強くなってこれたと思っているから。
私は最近、押見修造のとある漫画を紹介してくれた女性に同じ行動をされた。
彼女はこの漫画の存在について一切説明はしなかった。
彼女は自身の生い立ちからトラウマと困難、性に関することまで事細かく全てを私に赤裸々に語ってくれた。
そのため私もすべてを打ち明けた。これほどまでに隠すことなく話し、人の話を聞いてくれる人には出会ったことがなかったから正直戸惑った。
事前に自分のいくつかある中の代表的症状についても話した。
“頭の中で言いたいことが浮かんでいて整理できているのに、いざ言葉にすると上手く話せなくなる、そしてしまいには自分が何を言いたいのか、何を話しているのかわからなくなり無言になってしまう、だから自分のペースでゆっくり話したい”
自分が話している時にこの症状が出て、間が空いて急な沈黙を作り出してしまう瞬間が怖い。
それに負けじと自分を急かすがあまり、今度は自分の言いたいことじゃないことを言いきってしまい、どんどん話があらぬ方向に向かってしまうこともよくある。
あからさまに言うならば、その映画が好きなのに否定してしまい、肯定派から否定派として話を進めなくてはいけなくなる状況、無論自分がそのような状況を作り上げたのですが。
だからこそ話すより、こうして自分のペースで書く方が自分には向いていて小さい頃から好きなのである。
小学生の時に毎週朝に登校したら作文を書く時間があり、黒板にお題が書かれていて、それに沿って自由に書く時間なのですが、私は独自にその時間を楽しんでいました。
『山田シリーズ』という探偵ものの作文を勝手に書いていました。
例えばお題が「学校」なら、山田が学校で起きた事件を推理していく。
また、「夏休み」がお題でも山田は夏休みに起きた事件を解決するために奮闘する。
なぜ山田で推理ものなのかというと、当時『TRICK』というTVドラマにどハマリしていたからである。
仲間由紀恵が演じる主人公の名前が山田で、彼女がいくつもの事件を解決していくのだ。
ちなみに私の山田は男です。
山田の相棒である阿部寛演じる上田も私の作文で何らかのカタチで登場していた。
書きあげた全員分の作文は1つに綴られ自由に読める仕組みになっていた。
この『山田シリーズ』はクラスメートになかなか好評を博して嬉しかった。
やはり独りの世界が私には似合っているとも感じた。
話を戻すと、最近出会った彼女も話すのが苦手で、ゆっくりと考えながら話す点で似ているところがあったからこそ私を理解してくれた。
そして私はこの時はこの漫画の存在を知らなかったが、押見修造ファンである彼女は確実にその真似をしたのだと思う。
自然とメモ帳を取り出し、「ここに色々書いていこう」と提案してくれた。
その時はその意図に全く気付かず、家に帰り考えた時に彼女の優しさに涙が出るほど嬉しくなり、すぐに感謝を伝えた。その子を大事にしていこうとその時は強く思った、だからこそ今は申し訳ない。
そして私に気を遣いあえてこの漫画の存在を教えなかったのだろう。
あの子はまるで劇中の友達のように男気があった。女々しい自分を支えてくれた。
仕事の時などもこの症状が出る時がある。短時間で的確に相手に伝えないといけないため辛い。
電話はとにかく苦手。普段の着信は基本無視する。表情が見えないのも原因かもしれない。理由はわからない。
こちらから仕方なく電話せざるを得ない時はメモに言わないといけないことを書き起こして、必ず何度か練習してからかけるものの、それでも何かしら漏れる時がある。
この世で生きていくのは難しいと感じる。
小1の時、転校してきた時の自己紹介、あれは今でも忘れない、家族が馬鹿にしてくるので都合よく忘れたふりをするが。
私の学校では転校生は集会の時に全校生徒の前で挨拶することになっていた。
前の学校でできた親友たちを失った私の精神はぶっ壊れていた。
そして性格上、目立ちたくない。この時の自分は人の注目を浴びることが死を意味していた。
壇上に無理矢理まつられたことにより号泣。
自分の名前すら言えず、兄の後ろに隠れて代わりに紹介してもらったことを覚えている。
同じ年の運動会のリレーの時、私は急に足を止めて泣き出して途中退場した。
これは自分でも理由がわからない。
それくらいに内向的な人物であった。
そんな時、話しかけてくれた男の子がいた。
彼は私に同情して話しかけたのだと数十年後に語った。
彼が話しかけてくれて、意気投合して遊ぶようになって心を開くようになって自分の人生はどんどん開花していった。自分をさらけ出すことで毎日が楽しくなっていった。泣くこともなくなった。
といっても最初のうちは彼の家で遊んでいる時に急に泣き出して帰ったことが1度あった。
自分の感情が解らなかった。友達も困惑していた。
今でも彼とは交流がある。感謝している。
思うと、中学も高校も大学もどもることはなかった気がするのに、社会人になってからだろうか。
よくわからない。
自分を出して恋愛してぶちのめされて自己嫌悪に陥ったからだろうか。
恋愛は中毒性のある危険ドラッグのよう。
志乃は歌う時はどもらないんですね。自信に満ちているのです。
私も歌う時や、セリフを読む時、外国語を話す時(単純に勉強不足で詰まる時はある)はどもらないですね。
といっても歌うのは最も嫌いなことの一つなのでめったに歌いませんが。
理由は自分の声が大嫌いなのと、歌っている自分が客観的に見て気持ち悪いと感じるから。
たまにだけど、外にいる時に何かで楽しそうにしている自分に対して急に嫌悪感が湧きあがり、家に帰りたくなる時がある。
そしてたまたま外で鏡に映った自分が目に入り、顔の調子が悪い(思っていた自分の顔と違う時)と不快感に襲われ予定を変更して帰る時もある。一人で行動している時に限りますが。もし誰かといる場合は帰るわけにはいかないので、明らかに先ほどよりテンションが落ちていることでしょう。
逆に鏡を見て顔がいいとパワーアップ。そんな面倒くさい人です。
あとそれとは関係なしに、1日遊んだとすると、体力ゲージが少ないので後半は必ず感情が薄くなり「どうした?」って内心思われることでしょう。
驚くべきことにメモ帳を渡してくれた彼女も上記に当てはまったんですね。
ドッペルゲンガーかと思いました。
カラオケの話に戻しますが、そもそも高音も出ないし、音程もとれずうまく歌えない。
何より幼少期から苦手意識がありすぎて、自信が奪われて弱い自分を見られることに抵抗を感じる。
カラオケという場を可能な限り避けてきた人生。
しかし社会人になり、社会的圧で仕事場の宴会で無理矢理歌わされたのは根に持っている。
それぞれコンプレックスがあるのに、自分が嫌なことでないからといって平気で押し付けてくる奴は消えてしまえばいい。
逆の立場になって物事を考えられない奴が偉そうにするな。
「みんな待ってるから。そんなに迷ってたらもっと歌いずらいぞ。」
黙れクソムシが。
カラオケなんて所詮自己満足で、あまりにもうまくない限り誰もその人の歌を聴いてやしない。
志乃と友達はバンドを組み、お互いの欠点を埋め合う関係になる。
心で通じ合った素敵な関係です。
しかしそこに面倒くさい男子が介入してきたせいで、二人の関係は崩壊してバンドも解散。
ああいった男と付き合うのはシンドイですね。
彼の背景も描かれますが、それでも少し鬱陶しい。
瞬間は楽しいかもしれないけれど、長くは一緒にいたくないタイプですね。
最後に文化祭で友達が音痴をさらけ出し、自分で作詞作曲した志乃に向けた『魔法』という曲を歌うシーンから再び涙が溢れ出してしまった。
大切な人にどうしても想いを伝えなければならないとき、人はコンプレックスを曝け出すことを厭わない。
極めつけは歌い終えた友達のもとに駆け付けた志乃が大勢の生徒を前にして体育館で叫ぶシーン。
自分をさらけ出し全てが解放される叫び。
「私は!自分の名前が言えない!!言えないっ!!!言えないっ!!!言えないっ!!!どうして!!?どうして!!?どうして!!?知らないよそんなことっ!!!緊張してるから!?みんなと打ち解けないから!?そんなの!!!そんなの関係ないんだ!!!くやしい!!くやしい!!くやしい!!くやしい!!どうして私だけ!!どうして!!不公平だよ!!!喋れさえすれば…喋れさえすれば私だって…。バカにしないで…。笑わないで…。こわい…。こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい。だから、だから逃げた。誰にも喋らなければバカにされない。誰にも見られなければバカにされない。逃げて逃げて、言えない言葉を別の言葉に置き換えて、もっと喋れなくなって…でも追いかけてくる、私が追いかけてくる。私をバカにしてるのは、私を笑ってるのは、私を恥ずかしいと思ってるのは、全部私だから。私は…私…は…おっおっおっお、お、お、…大島志乃だ。これからも…これからも…これがずっと私なんだ。」
劇中で二度鼻水を垂らしながら演じた南沙良さんの熱演が素晴らしい。
この映画は私の邦画オールタイムベストになりました。
ようやく自分の邦画に出会えた。
苦しみから解放された。私も自分の弱い過去をさらけ出せるまでに成長できた。
未だに身体や内面に変化を感じるし、いつまで思春期は続くのだろうか。
ありがとう押見修造、そして今でも世界一最高なあの子。
今年はいまだかつてないほどに自分に対して向き合い考えることができている。これでようやく行動ができる。
演じることが私の弱みを強さに変える方法である。
マリリン・モンロー、サミュエル・L・ジャクソンなど俳優界には何人も吃音症を公表している人がいる。
その中の一人ブルース・ウィリスはこう語る。
「僕はひどい吃音症だった。だが高校かどこかで舞台をやっていて、そこで言葉を記憶するとどもらないことに気付いたんだ。奇跡のようだった。吃音症を克服できたきっかけだ。僕は自分が障害を抱えていると考えてたんだ。全く人と話をできないくらいひどかったからね。」
コンプレックスを武器に生き抜く。
劇中で志乃が歌うブルーハーツの「青空」が大好き。
生まれた所や皮膚や目の色で
いったいこの僕の何がわかるというのだろう
運転手さんそのバスに
僕も乗っけてくれないか
行き先ならどこでもいい
こんなはずじゃなかっただろ?
歴史が僕を問いつめる
まぶしいほど青い空の真下で
私も映画の“向こう側“へ行きたい。
(クロイハナガ、サ・イ・タ・ヨ)
一言教訓
明日自慢できるトリビア
①主人公・志乃の母親役で一瞬登場するのは奥貫薫。個人的に大好きな『旅猿』でナレーションを務めているので親近感が湧いた。
②原作の押見修造は本作の下敷きは『ゴーストワールド』(2001)だと語っている。田舎に住む女の子二人がうだうだ文句を言っている作品である。
③湯浅監督によると映画は1996年という設定で作られており、当時志乃の友達役がチョイスしそうな曲にプラスしつつ、監督も同年代なので高校生の頃に好きだった「THE BLUE HEARTS」と「THE MICHELLE GUN ELEPHANT」をリストアップした。
④ロケ地は静岡県沼津市と下田市。原作の舞台は押見修造の故郷である群馬県桐生市。