
自分を隠して生きるってシンドイよね
はちどり
キム・セビョク
イ・スンヨン
チョン・インギ
パク・スヨン
一言粗筋
ほのぼの感想あるいは解説
今年は自分にとって苦しい映画が多い。
何故このタイミングで追い詰めてくるんだ。
もう遅いんだからやめてくれと思う映画もある。
時代的にも行動が制限されている中でもどかしい。
自分の過去を、今を、善きも悪しきも切り取られた気分に陥る。
『Waves』『ジョジョ・ラビット』『カセットテープ・ダイアリーズ』『星屑の町』『グッドボーイズ』『mid90s』
その中でも今年ベストとなったのは本作『はちどり』。
こんなにも人間が人生で味わう複雑な感情の一瞬一瞬を自然に詰め込み、かつ理解できる映画は初めての出会いである。
映画の表現は無限大ですね。映画は偉大。
『はちどり』には自分が少年期から見ても見ぬふりをしてきた全てが描かれていた。
そして最近悩みに悩んで自分を客観的に見ることができたタイミングでの鑑賞なので観ていて感情がおかしくなりそうだった。
自分がこういった映画を理解できるような人生を歩んできたことに成長と切なさを感じる。哀しくもある。
でもそうした歩みがあるからこそ、ようやく自分がなりたい自分になるためのスタートライン手前(手前かよ!)に立てているから生きてきてよかったと思う。
主人公ウニの感情爆発のシーンで思わず感極まったが泣きはしない。
ここで泣いていては先はない。
ちなみにこのシーンで家族みんなが「ウニがおかしくなった」と言わんばかりの唖然とした表情をするが、こちらからしたら「お前らのせいだバカやろう!」である。
一番年下の子供が何も見えていない、何も考えていない、何も感じていないと思ったら大間違いだぞと言いたい。
あの歳の頃には見えているものが全てなんだ、そこから葛藤、欲望、希望、失望、絶望が生まれる。
この泣きはしないというのも私の心が歪んでしまった証拠。
もちろん泣く映画もある。
単純に悲しい作品である。
映画館で耐えきれなかったのは『インポッシブル』(2012)と『ワンダー 君は太陽』(2017)の2本。
最近ある意味泣かされたのは『スターウォーズ エピソード9/スカイウォーカーの夜明け』(2019)ですね。
『はちどり』の主人公14才の少女を見ていると、自分を閉ざしたあの頃、生きている意味や答えを見つけようと自分に変化を与えて精神を高めようとした時期、人が作り出すイメージに対する自分の葛藤を思い出した。
思春期に沿って身体の変化に合わせて道を歩もうとする自分と、それに不快感を覚えて逆らおうとする自分。
SF映画に逃げて現実逃避した、といってもそのおかげで豊かになった想像力。
逃げることが必ずしもネガティブ要素に繋がるとは限らない。
過去があるから、辛いことを乗り越えたからこそ、それは乗り越えた風で時間が消化してくれたこともあったけれど、だからこそ今の自分がいる。
その自分を否定したくもないし、否定されたくもないし、隠す必要もないし、もう逃げたくもない。
精神面からくる色々は社会では仮病とされ罰則を与えられることもある。
このような社会には馴染めないので私は自分の生きやすい道を見つけたし、誰に何を言われようが死ぬまでそこに挑み続ける。
私の運命を変えた(そういった人は何億人といることでしょう)映画であるスターウォーズ。
今だからこその話、そのスピンオフである『ローグ・ワン』(2016)を初めて映画館で観た時は絶賛していたが、実は前半が退屈で眠かった。
でも自分を変えたスターウォーズだからそんなはずはないと今に至るまでその眠気はなかったことにしていた。これも現実逃避。
もう自分の感情に嘘はつかないぞ!怒る時は怒る。怒りの感情は生きていくうえで非常に重要な感情。あまりにも不条理なことは立ち向かわねばならない。
だからこそ胸を張って言えた。
そう、『スターウォーズ エピソード9/スカイウォーカーの夜明け』は駄作だし、使命感から2回目を観に行った時は寝た!我慢せずに自分の意思に背くことなく寝たくて寝た!それで正解!越後製菓!
『はちどり』の話に戻すと、どちらかが死ぬまで続くのではと感じる両親の喧嘩、親とうまく話すことのできないことによる疎外感、男である兄が重視される家族内での孤独感、自分の弱さを隠しきれず家族にあたるも本当は葛藤している父、心がどこか遠くへ行ってしまった母、両親からの圧に応えつつも内心はストレスに押し潰されそうになり、それを暴力に代えてそれでしか自分の強さを誇示できない兄、自分の本心を隠すがゆえ父親に怒られてばかりの姉。
主人公のウニの立場から見ると、兄も姉も関わりが薄く謎めいている。
兄妹だからこそ知らないことばかりの関係性がうまく表現されている。
みんな自分を隠して生きている。たとえ家族内でも。
隠さないと理解されないから。しかしそれは本来の理解ではない、上辺だけの理解である。
だからこそいつか自分が崩壊する。
溜まりに溜まった感情を抑えきれなくなる。
前に進むためには何かに妥協しなければならないのかもしれない。
そうでなければ、見方を変えなければ、皮肉なことに人生は時間だけが過ぎていく。
そんな時間が無駄に感じるから私は自分を変えてきた。
人だから言われて嫌だったことや、褒められても自分にとってはそれがコンプレックスであり嬉しくないことはいつまでも覚えている。しかし私は覚えてないふりをし続けた結果、記憶の扉ができ、閉じ込めることでポジティブな自分を生み出すことができた。他者から見れば都合のいい人間かもしれないが、そうしないと強く自信に満ち溢れた己を維持できないのである。
過去に縛られて生きていては身が苦しい。
いまを生きている意味がない。
かといって同情を求めているのではないので自分でも面倒くさいと思う。
解っていないのに同情されるくらいなら、解らないまま嫌われた方が楽なのかもしれない。
上辺だけの関係は切り捨ててきた。
すぐブロックするし、非表示にしてきた。
SNSは100回以上アカウントを消してきた。(じゃあやるな!…うん、今や自分の好きなオフィシャルアカウントしかフォローしないことで傍観者として落ち着いた、他人が他人にしている誹謗中傷を見かけるだけで反吐が出る、お前ら、そんなことするより自分を見つめ直せ)
時が来たら、準備が整ったら早くLINEも消したいし、電話番号も変えたい。(お前、何があった!)
幼少期の日本各地での移り住みは確実に私の性格を変えてしまったし(『旅立ちの時』状態、しかし親は工作員ではない)、いろいろあって次第に人を信用できなくなり疑い深くなったのも事実。
人見知りから来る不安に押し潰されて泣くしか方法のなかった毎日。
情緒不安定になり、自分でも感情の操作ができなくなり学校に行きたくなかったあの頃。
そして記憶の扉からも消えてなくなったその時期の記憶。
成長して逆に学校が好きすぎて休日が早く終わって欲しいと思う日々。
しかし高校は自己形成に悩み空回りしてそれなりにしか楽しめなかった。
大学は関係を無理矢理作ろうと必死になっている自分が気持ち悪くなり、勉学に集中しようとするも気付けば全てが中途半端に終わってしまった。
自分を変えるため無理矢理、女性関係を築こうとして1日遊んではこの人は違うとなりそれっきり会わないを繰り返した日々。
今思うと何をあんなに焦っていたのだろうか。
濃厚で空虚な学生生活に乾杯!
やはり子供時代に心が捻くれながら育ってしまったので、コミュニケーションをとっている間に今でも相手に対して変な考えをしてしまう自分がいるのが嫌だ。
しかし残念ながらもう変わることはない。
共に生きていくしかないのだ。
自分がコミュニケーション能力に支障が出ていることも解っている。病気といえばそれまで。
それでもいい、だから何だとむしろ開き直りたい自分もいる。
外国語を学んだのも違う自分を演じられ、そちらの方が楽だから、不思議なことにどもることもなく自分らしさを発揮できる。
演じているのにそれが自分らしさに感じる自分が自分でもわからないのだから、複雑な自分の感情を解る相手に出会えるわけもない。
説明ができないし、それが正解なのかもわからないのだから。
そんな自分を出すのは自分でも疲れるので、強い自分を出して、明るい自分を維持して、クールな自分を装っても、実は弱いから気を遣って、考えて、疲れて、頭が痛くなって、薬を飲んで、たまには生きる意味を見失って。
海外に一人で旅に出るようになったのも自分を試すため。無事に生きて帰ることで一人で何でもできたと証明するため。それは親に対して?分からない。
最近、分からないことは分からないと言える人になろうとも決めた。
答えを求められると苦しいし、それを探すのもシンドイ、共に見つけたいならついてこればいいし、来たくないのなら来なくて結構、自由を尊重。(何の話!)
劇中では指を眺めて動かして神秘を感じていたが、私は鏡を見て自分がそこに存在していることに安心感を抱き、自分の顔を見て必ず笑顔を作るようにして自信を製造している。
もちろん誰しもがやる(と思い込んでいる)、この角度は綺麗だなぁ、この角度は不細工だなぁも把握済みだ。
魅せる自分と見せない自分を使い分けてしまっている。
孤独と向き合い、孤独を癒すのには鏡が必須。隙あらば鏡を見ていたい。全く変人だが面白みのある人間だ。(自分で言うな)
多重ではないけれど、2重人格ではあるんだろうなぁ。
例えるなら『ロード・オブ・ザ・リング』のゴラムとスメアゴルの関係。
「ホビットから指輪を奪え」と言うゴラムに対して、「あのホビットさんは善い人ね」と葛藤するスメアゴル。
しかし「デブのホビットさんは嫌いね」という意見は満場一致のゴラムとスメアゴル。
私の心もこういった感じ。
彼も水面に映る自分を眺めて「ゴラム!ゴラム!」と自分の名を繰り返し言って自分を保とうとしているではないか。
今思うと、小学生の時に映画館で観て以来、このモノマネに取り憑かれていた自分がいる。
心が捻れたのはゴラムのせいなのかもしれない。
「イトシイシト〜」
自分と同じ境遇や感情をもつ人物に出会い、理解し合えるのかと思ったら結局お互いに自分のことしか考えていないから関係は続かない。
相手を思いやる時もあれば、その余裕がない時もある。
事細かく同じ行動をしてきて、感情の変化も驚愕するほどに類似してたって続かないものは続かない。
そういった男は孤独の方が似合うのかもしれない。
いや、似合うというより、自ら出会いを崩壊へと導いているので当然の報いなのである。
男女関係においてどちらも余裕がなければ関係維持など無理な話。
でも男はこうでなければならない、女はこうでという考えは終わっている。
人間関係は難しい。
考えれば考えるほど沼にハマる。
しかし時には身を削ってでも考えすぎることが自分を客観的に観れるいい機会になることもある。
自分を好きになることが相手を愛すのに必要な一歩である。
そしてその結果、私はこの映画に出会うことができた。
しかしながら無関心ほど怖いものはない。劇中の母親が怖く見えてしまった。
私は見たくない家族の姿は見ないように過ごしてきたが、どうしても自分が行動しなければならない時もある、家族と家族が反撥しないように少年期の私は自分なりに工夫をした時もあった、それが嫌で嫌で仕方なかったが、逆に今でも家族に自分の姿(物理的かつ家族にとっては違う自分であるが自分にとっては本当の自分)は見られたくない。
子供の時から自分の変化を家族に見られたくないという変人なまま今に至るので家族とはうまくコミュニケーションがとれないのだ。
本作の主人公ウニが置かれる家庭環境は、舞台である1994年の韓国の時代背景が大きく関わっているものの、共感できる理由はどこにでもある日常だから。
彼女は親友に「ウニはたまに自分勝手だよね」と言われてしまう。
かといってその親友も自分勝手なのだから、なんとも言えないモヤモヤ感である。
自分ができていないことを人に告げて否定してしまう。
なぜ人は傷つけたくないのに大切な人を無慈悲な言葉で傷つけてしまうのか。
第三者の視点から観ているため、どちらの心情も解るのが映画という媒体のもどかしいところ。
しかし現実において溝ができた時、相手のことを考えれば考えるほど真実や正解が遠のいていく。
誰か答えを教えておくれ!と100フィート高くまで叫びたくなる。
自分が傷つきたくないから相手を否定して傷つけ困惑させる。
感情変化の起伏の激しさに自分でもついていけない。
とにかく自分の話を丁寧に聞いてくれて、なおかつ一緒に考えて答えを導いてくれる人は大切にすべきですね。
そういう人を失うと、こうしてブログにこつこつ書くことしかできないわけです。(自虐も悪くない)
でも書くことで解放される。トリップできる。
本作では見える表情と見えない本心のバランスが絶妙で、セリフと画に説得力を生み出し過ぎているため怖さもあった。
だから現実が映画で描かれる系映画が苦手なんだなぁ。
映画の中ではあまり自分にとって身近な問題を考えたくないという意識が自分の中に潜在的にあるので。
自分の弱さや、これまで見て見ぬふりしてきた事柄を観なくてはいけないので。
もういい年なので、いつまでも14歳の女の子に共感できるのはいかがなものかと自分でも思う。
いつまでも拗らせている“永遠の反逆児”として生きていくしかないのか。
未来は分からない。
本作の好きなシーンを語ろう。
ウニと親友の喧嘩の原因からの仲直りのシーンがたまらなく愛しい。
裏切られた時のウニの表情がうまい!解る!解る!信じてた者に一瞬にして裏切られる瞬間!
そして自分が悪いのに謝るどころか開き直る親友も解る!解る!
私が完全に過ちを犯したのに、怒られてもなんか気に入らず「はっ?何でそんなに怒られなきゃならないの?」と逆切れする始末である。
どうやら私にはクズという称号がふさわしい。
仲直りの仕方もいい!!
私にはタイミングを失わずに、自分の過ちを逃げずに考えて、それを面と向き合って説明できるほどの勇気はこの歳の頃にはなかった。
都合のいいように逃げていた。
そして都合よく記憶を書き換えていた。
次に元彼に対していったウニの一言。
「あなたを好きになったことは一度もない」
突き刺さる。
観客側は楽しそうに120日記念ソングを制作しているウニを見ているのでね。
これも解る!
今の気持ちを歌に代えて贈りたくなりますよね。
「気持ち届いたかなぁ〜?不安だな〜。返事ないな〜、なんなんだアイツ、もう嫌いだよ!」といった情緒不安定も引き起こすから怖いですが。
わたしゃ勝手に好きになっといて嫌いになるのも勝手で自分勝手すぎて拗らせてまんのー。
何で人は好きなままでいてくれないのでしょうか?(誰宛?)
気持ちを切り替えて前に進むには、時には過去の自分を偽る必要もある。
一度の信頼の失いは、確実に二人の心に距離を生む。
続いて病院でのシーン。
ウニが入院した病室にはおばちゃんばかり入院している。
後輩の女の子が見舞いに来たので、カーテンレースを閉じてプライベート空間を作り出そうとした時だった。
「あーら、そりゃ聞かれたくない話もあるわよね、やーだ恥ずかしそうにして〜」
うるせー!ババァ!(笑)
絶対あのババァたち、キスするところもカーテン越しにシルエットを眺めて楽しんでるだろ!
「あーら、やだ、女の子同士でチューしちゃったわ!素敵ね〜、私たちもしましょっか!なーんて、てへぺろ〜」(妄想)
黙れババァ!!
でも梅干しはありがとよ!
後輩と言えば、出会いのシーンもよかった。
髪型も変えてお洒落してディスコに行って日常を忘れて楽しそうに踊っていると、たまたまいた後輩がその姿を見て尊敬の眼差しを送る。
そしてボスと呼ばれることに。
あーこの子、普段と違う自分を好きになってる〜、だけどそれも悪くない〜、身を任せて好きなままでいてもらおうか、でも本当の自分を見せると傷ついて離れていっちゃうんじゃないか、もう少し装って様子を伺おうかみたいなことを考えてましたね〜あの時期。
案の定、本性を見せると引いていくのです。
同性から支持があるって素晴らしいことですよ。
最後にチヂミ!
母親が作るチヂミをパンケーキ感覚で貪るウニは無表情だけど幸せそう。
母親も幸せそうに見つめる。
子供ながらの食べ方でくちゃくちゃ言いながらも行儀の悪さを怒らない母親との関係性にグッとくる。
何も考えていない時が一番幸せなのかもしれない。
考えると何かしら傷がつくから。
でも行動しなければ生きていけない。
人生は面倒くさいけれど楽しい。
うまくいかないときの方が多いけれどそれでも楽しい。
楽しくない時も見方を変えれば楽しくなる。
いや、楽しくないことは楽しくない!正直に生きよう!
楽しくないからこそ楽しくなるように行動する!イェア!
見えている表情が必ずしもその人の心情と直接結びつくのではないといったことを表現している象徴のようなチヂミシーン。
笑顔でも内心は冷めている、怒っていても実は楽しんでいる、痛がっていても喜んでいる。
そして幸せは無表情でも表現できる。
大切な人とは時間をかけて関係を築きたいですね。
自分に正直で自然に生きられる世界、そしてその世界で通じ合える人々がいれば幸せである。
生きる意味を教えてくれた塾講師との別れを橋が崩れ落ちた描写に重ね合わせたこと、そしてウニがそれを自分の目で見て涙を流したことで、彼女の心の葛藤や不安が一旦解放されたようにも見えた。
さらに真っ直ぐ見つめる眼差しが現実と向き合うことへの決心に、そして崩れた橋が成長の傷跡のようにも感じとれました。
またしても「私の映画」が増えました。
『スタンド・バイ・ミー』
『ウォールフラワー』
『シング・ストリート』
『はちどり』
次はいつ出会えるだろうか、そしてそのとき私は何歳なのだろうか。
生きてておくれよーーーーーー